六孫王源経基館
箕田の城山とも呼ばれる源経基の館址は鴻巣の鴻巣高校の南に隣接してある。
源経基が武蔵介として赴任した際に居住したと伝わる。
源経基は赴任するや武蔵権守・興世王とともに検注を実施。これに対して、足立郡司の判代官武蔵武芝が慣例に反するとして反発。この武芝は武蔵不破麻呂を祖として武蔵国造家の家柄であり、武芝の子孫は野与氏を称したという。興世王と源経基は武蔵武芝の抗議を無礼であるとして財産を没収。武蔵武芝は平将門に調停を依頼し逃亡。
平将門の調停によって興世王と武蔵武芝は和解。しかし、源経基は和解に応じず比企郡の狭服山に籠ったという。この狭服山が箕田の城山だとされている。武蔵武芝の軍勢は源経基の館を取り囲んだために、身の危険を感じた源経基は館を放棄し京都へと落ち延びた。
京都に戻った源経基は興世王と平将門に謀反の疑いありと告発。平将門は太政大臣藤原忠平に対して申し開きを行い謀反の嫌疑は晴れる。却って、源経基は讒言罪によって左衛門府に拘束される。
事態はこれで終わりでは無かった。坂東において平将門を支持する勢力は増し、遂に平将門は上野国府において新皇を称するに至る(承平天慶の乱)。
平将門が新皇を称し坂東に独立の動きが出ているとの情報に朝廷は源経基を赦免し、征東大将軍藤原忠文の副将として平将門追討軍として派遣。しかし、追討軍の到着前に平将門は平貞盛・藤原秀郷によって討たれていた。