石戸城

埼玉は北本にあるお城。室町時代の長禄年間(1457〜60)に古河公方足利成氏に対抗すべく、岩槻城、武蔵松山城、河越城との連絡のために扇谷上杉氏が築城したと考えられています。

城主は扇谷上杉氏の藤田八右衛門が勤めました。

1562(永禄5)年に、小田原の北条氏邦は秩父の鉢形衆を率いて石戸城を攻めています。この時の石戸城主は毛利丹後守だったと『関八州古戦録』にあります。この戦いで苦戦を強いられた北条氏邦は城の東側の谷地に土橋を築き城を落としました。これが一夜堤と呼ばれるものです。

落城後は、北条氏の家臣依田大膳亮が城主となり、その後、上杉謙信が攻城し岩槻城主太田資正の支配する城となりました。

1563(永禄6)年に北条氏康と武田信玄が上杉新蔵人憲勝が城将を務める武蔵松山城を5万の兵で包囲。これに対して、上杉謙信が越山して関東に侵攻し石戸城に陣を構えます。ところが、1563年に上杉新蔵人憲勝が北条氏康と武田信玄に屈して武蔵松山城を開城してしまいます。この降伏に怒った上杉謙信は憲勝の子を斬り捨て、更に、騎西城を攻め滅ぼしたと言われます。

なお、上杉憲勝は深谷上杉家の出で扇谷上杉家に入った人物。河越夜戦で扇谷朝興が討死し扇谷上杉家の嫡流が滅びたため、太田資正によって擁立された人物です。