住吉城
JR横須賀線の逗子駅を降りて、京浜線の新逗子駅のほうに向かって歩く。田越川を跨ぐ形で新逗子通りがほぼ旧鎌倉街道下道だと考えられる。
その新逗子通りに面しているの延命寺に三浦道香の墓がある。入り口を入って、すぐ右手にあるので分かりやすい。
三浦一族と言えば、鎌倉城域のすぐ外側を本拠地として、源 頼朝の挙兵にはいち早く馳せ参じた名門。しかし、1247(宝治元)年の宝治合戦で北条氏によって攻められ、源 頼朝ゆかりの法華堂で壮絶な最期を迎えている。
後に、分家筋の佐原氏によって三浦氏は再興。
この墓は、更に時代が下って、その三浦氏を継いだ上杉高救の子の義同の弟のもの。上杉高救は扇谷上杉持朝の子であり、三浦氏にとっては主家に当たる。養子縁組は三浦家に実子がいなかったためだが、実子が生まれると義同は追われる身となる。後に、実力で三浦家中を掌握。しかし、1512(永正9)年に後北条(伊勢)早雲の軍に攻められ、住吉城での攻防となる。この戦い城は落城、城主であった弟の道香は、もはやこれまでと城を退去した後に延命寺で自害したという。
寺に残る宝篋印塔は家臣の、菊池幸右衛門の手によるものという。
三浦道香が城主を務めた住吉城は逗子駅から離れた小坪の地にある。住吉城は鎌倉時代に鎌倉に入る古東海道の小坪坂を押さえる要害として北条家によって築城されたと伝わる。つまりは鎌倉城の出城的な役割を担っていたのであろう。1510年には、越後の長尾為景の要請によって、上田政盛とともに扇谷上杉朝良に対して挙兵した北条早雲が住吉城に立て籠ったと伝わる。
扇谷上杉氏に対抗した北条早雲が立て籠もり、扇谷上杉氏の血を引く三浦道香が立て籠もり北条早雲が立てこもった城。それが住吉城。
そう考えると不思議に思う。
今は大手口の正覚寺が、城址の住吉社が、鎮魂の佇まいを見せている。
2013年訪問