新井城

1247(宝治元)年に鎌倉幕府執権・北条時頼が三浦一族を滅ぼした後、同じ三浦一族でありながら北条時頼方として戦った佐原盛時が三浦介を継いだ時に築城したと伝わります。

1416(応永23)年の上杉禅秀の乱に加担したことで佐原盛時の子孫の三浦高明は鎌倉公方足利持氏により相模守護職を剥奪。扇谷上杉家が相模守護職を得たため、三浦高明は扇谷上杉家の家臣となります。

三浦高明の子の三浦時高は子がいなかったために、主君である扇谷上杉持朝の次男・高救を養子とします。ところが、三浦時高に実子高教が誕生。三浦時高・高教父子は三浦高救・義同父子と対立し、三浦高救・義同父子を追放。三浦高救・義同父子は扇谷上杉家の重臣・大森氏の支援を受けて新井城を攻めて三浦家の家督を奪還します。

これで三浦氏は安泰と思われましたが、伊豆の伊勢盛時(北条早雲)が扇谷上杉家の重臣・大森氏の支配下にあった小田原城を奪取すると、主君・扇谷上杉朝良と連合して伊勢盛時との戦争に突入します。

1513(永正10)年、伊勢盛時(北条早雲)は三浦義同に対して大軍で攻め寄せます。相模岡崎城が落ち、住吉城が落ち、救援に向かう扇谷上杉軍も伊勢軍に阻まれ、三浦義同は本拠地の新井城に追い詰められます。籠城戦は3年近くに及びますが、追い詰められ、三浦義同は切腹、義同の子の義意は伊勢軍に突撃して討死したと伝わります。