赤堤砦

世田谷は赤堤にある吉良氏の砦。

世田谷城主の吉良氏が世田谷城の支城として築いたとされています。赤堤砦は吉良氏没落とともに廃城となりました。

江戸時代には旗本服部家の赤堤陣屋が置かれました。赤堤陣屋の服部家は服部半蔵家とは別系統で、1590(天正18)、服部貞信が160石、継いで貞富が400石、貞治の代で1300石、常方に至って1400石を領しました。

本能寺の変の際に徳川家康の堺見学を案内していたのは織田信長の家臣・長谷川秀一でしたが、本能寺の変の報せを受けて、徳川家康の三河帰還のために手配した人物の中に、服部半蔵正成とともに呉服社の別当服部美濃守貞信の名前があります。長谷川秀一は大和国人十市玄蕃允一党、宇治田原の山口城主山口甚介秀康らに支援を求め、津田主水頭を使者として徳川家康を宇治田原を経て尾張熱田まで同行し案内しています。

その後、服部貞信は徳川家康の旗本として取り立てられて、かつて吉良氏の砦のあった赤堤に陣屋を設けました。1697(元禄10)年に服部家は領地替えとなり赤堤を離れています。服部常方の子が服部貞殷に当たり、現在陣屋跡に建っている六所神社は、この服部貞殷がが武蔵国惣社六所明神こと大国魂神社を勧請したことに始まります。

六所神社の他に赤堤砦と伝えられている場所が六所神社近くの善性寺です。


善性寺の山号は赤堤山です