三宿塁
塁とは土をつみ重ねた小城のこと。塁というと筑土八幡宮の地にある上杉塁などが知られています。
三宿塁は現在の世田谷の多聞小学校から三宿神社(旧多聞寺)に掛けてあった城です。
北に北沢川、南に烏山川が流れる舌状台地で、武蔵吉良氏の拠点であった世田谷城の支城として吉良氏によって築城したと考えられています。写真でも若干分かりますが三宿塁のあった辺りは小高くなっています。丁度尾根の部分に多門小学校と三宿神社が道を隔ててあると言えば分かりやすいでしょうか。
空堀の跡が残っていたとされていますが現在はありません。
三宿神社は境内が一段、二段、三段と高くなっています。境内の裏手の多門小学校から見ると道路を隔てた辺りの高台は公園になっています。
三宿神社境内。中々、雰囲気があります。
三宿神社の裏手の高台にある公園
なお、三宿神社は曹洞宗郡中世田谷村勝国寺の末寺だった清水山天王院多聞寺が廃寺となった後、明治維新後の一村一社制度によって創建された神社。勝国寺と言えば吉良政忠が世田谷城の裏手鬼門除けに開基したお寺。赤堤砦があった場所に建っている善性寺も勝国寺の末寺。吉良政忠は成高の父で法号が勝国寺殿昭岳道旭大居士。ちなみに、吉良成高の子の吉良頼康が1530(享禄3)年に扇谷上杉軍によって世田谷城が落城し、蒔田城に移った際に勝国寺も世田谷から蒔田に移しています。