人見氏屋敷
標高80メートルしかない府中にある浅間山。
しかし、この山からの眺めはすこぶる良好。
ここは、武蔵七党の一つ猪俣党の河勾政基の子・政経が人見村を領して人見六郎と称して館を構えた地と言い伝えられます。その子孫である人見四郎忠衡は平家物語に、人見四郎入道光行は鎌倉幕府末期に楠木正成の篭城する河内赤坂城攻めで討死したことが知られている人物。
『武蔵名勝図会』に
「人見山は村の西寄りにあり、三ヶ所屹立し堂山、中山、浅間山という、その内にて浅間山を第一とす。浅間山は高さ二十間ばかり、堂山十四・五間、中山は十間ばかりなり。その形丸くして山上は平坦なり。西の方は陸田にして地より築きたるが如く、堂山、中山は東の方へ一段低くなだれたり。周囲およそ二町ほど、この内、中山は分界劣れり。浅間山は東北の間へ一段低くなだれ山なり、周囲およそ四町ほど。ここに奇異なることはこの四辺ことごとく黒野土なれども、山の土性は真土なり、築きたてたる山に似たり。また、平原の中にこの山あることは一奇なり。
浅間社 浅間山の山上にあり、神体銅像なり、長さ一寸六分ばかり、中山の北麓に清水の小池あり、その清泉より出現せり。里人霊験ありとて尊信す、旱するときはその霊像を清水へ持ち行きて雨を祈るに必ず霊験あり。霊像は村内幸福寺にあり。
観音堂は堂山にあり、いま村内幸福寺境内へその堂を移せり。
人見村は往古武蔵七党の内より出たる人見氏の住居せし地なり。人見氏は猪俣党にしてその初めは横山党より出たり、岡部など、党を同じくす、村内に上屋敷、下屋敷などいう地あり。上屋敷は村の西にあり、下屋敷という村の東にありて何人の住したるかを知らずといえども正慶(1332-33)のころ人見氏の住したるものなるべし。人見四郎入道は正慶二(1333)年二月二日、本間九郎資貞と同じく先発して、赤坂の城にて討死すると太平記に見えたり。」
とあります。
もっとも、人見氏の根拠地は深谷にありますので、府中の浅間山にあったと伝えられるのは人見氏の一族の館だったのかもしれません。
1338(延元3)年の父・新田義貞の戦死の後も関東において足利軍を駆逐する機会を探っていた新田兄弟と足利尊氏派と直義派が三つ巴の戦いを繰り広げたのもこの地。
1352(正平7)年2月、足利尊氏が幕府内部での路線対立により弟の直義を殺害。新田兄弟と従兄弟の脇屋義治は好機到来と捉え、宗良親王を奉じて挙兵。この軍に足利直義派の上杉憲顕なども加わり激闘が繰り広げられました。
その際に眺望のよさ故に陣が布かれたのもこの地。
現在、かつての戦死者を弔うためか、あるいは小高い山の持つ重要性に敬意を込めてか浅間神社が祀られています。
2002年12月訪問