増尾城
相馬胤村(-1270)の子である師胤が居城としたとの伝承を持つお城(『東葛飾郡誌』)。
相馬胤村は相馬家の四代目。胤村の死後、胤村の後妻である阿蓮尼は実子である相馬彦次郎師胤を嫡子として鎌倉幕府に届け出ました。
これに対して、鎌倉幕府は相馬彦次郎師胤に下総国相馬郡薩間、粟野と陸奥国行方郡耳谷村を、阿蓮尼に下総国相馬郡増尾と陸奥国行方郡盤崎、小高を与えました。
これに対して、胤村存命中に嫡子とされていた相馬次郎左衛門尉胤氏は下総国内の遺領を得られず相馬家内で対立が勃発。この争いで、胤氏は鎌倉幕府から相馬家の嫡子として認められたものの、胤村の遺領のうち下総国にあった領地の相続は認められず、陸奥国行方郡の太田村、吉名村、北田村、赤沼の相続のみ許されることになります。
相馬胤氏は鎌倉幕府の召喚命令に反して陸奥国行方郡に立て籠ります。このため、幕府は御成敗式目によって、相馬胤氏から相馬惣領家の地位を引き継いだ子の相馬五郎左衛門尉師胤から所領の三分の一を収公し長崎思元入道に与えてしまいます。これによって相馬惣領家は歴史から姿を消してしまいます。
1285(弘安8)年、阿蓮尼は『阿蓮譲状』で、増尾村を与えられました。増尾村は師胤の姉妹の駒夜叉に譲られていたが同女が出家したため相馬胤村の子の相馬彦次郎師胤に改めて譲られることになります。
阿蓮尼が亡くなると、その息子である師胤・胤実・胤門兄弟が所領争いを始めます。相馬彦次郎師胤が亡くなると相馬彦次郎師胤の子の相馬重胤が跡を継ぎ、叔父・相馬彦五郎胤門の養嗣子となると、相馬重胤と叔父胤門との間での所領争いとなります。
相馬重胤は1323(元享3)年に一族・家子郎従を率いて下総国から陸奥国行方郡太田村に移住。この後、重胤は陸奥国田村郡三春の田村三河前司入道宗猷の養女・藤原氏女と結婚。
増尾城は相馬重胤の奥州移住によって一度は放棄されたものと考えられています。
戦国時代に増尾城を再び取り立てたのは高城氏であり、増尾城には高城氏の家臣である平川若狭守が守ったと伝えられます。
現在残る増尾城の遺構は戦国時代に高城氏が築いたものでしょう。
高城氏は下総国葛飾郡小金を本拠地とした一族。平姓千葉氏の一族であり、九州千葉氏の千葉高胤の次男である胤雅が肥前国高城を本拠として高城を称したのが始まりとされています。高城胤雅は南朝方として戦ったが肥前国の所領を失い下総国戻って下総千葉氏の被官となったと伝わります。