片倉城
八王子は片倉にある中世城館。
南北朝時代の応安年間(1368〜75)に長井広秀が築城したと伝わります。
長井氏は源頼朝の側近で鎌倉幕府初代政所別当大江広元(1148〜1225)の次男・時広(〜1241)が出羽国置賜郡長井荘を所領として得たことに始まる家です。兄の大江親広(〜1242)が承久の乱で後鳥羽天皇方として鎌倉幕府軍と戦い敗れて出羽国寒河江荘に逃れたために、大江家の惣領となりました。
1213(建暦3)年に信濃源氏泉親衡が鎌倉幕府第2将軍源頼家の遺児千寿を擁立する陰謀が発覚。泉親衡は幕府軍と交戦の後に出奔。鎌倉幕府侍所別当和田義盛の子の義直・義重と甥の胤長が陰謀に加担したとして逮捕されます。
和田義盛は第3代将軍源実朝に赦免を嘆願。和田義直・義重は釈放されます。しかし、和田胤長は許されず大江広元によって陸奥岩瀬への流罪が言い渡されます。更に、第2代執権北条義時が和田胤長邸を没収。これに激怒した和田義盛は親戚である三浦氏、横山党などとともに反北条氏の挙兵の烽火を上げます(和田合戦)。
挙兵の直前に三浦義村は和田義盛を裏切って北条義時方に付いたことで形勢は和田軍に不利になりますが横山党が党を挙げて鎌倉入りしたために互角に。続いて、曾我氏や中村氏といった伊豆・相模の御家人が鎌倉騒乱の最中に鎌倉入りします。これらの御家人に対して大江広元が鎌倉幕府第3代将軍源実朝の御教書を示して幕府側に引き込みます。このため、和田・横山軍は奮戦するも劣勢に立たされ和田義盛らは討死し和田一族は滅び横山党も壊滅します。
戦後、北条義時は侍別当の地位を得、大江広元は横山党の本拠地だった武蔵横山荘を得ます。つまり、片倉の一帯が大江家の所領となったのです。
さて、長井時広の死後は嫡男の長井泰秀(1212〜1254)が長井荘を継ぎ、次男の長井泰重が備後守護職を引き継ぎました。長井泰秀は鎌倉にあって鎌倉幕府の評定衆を勤めます。長井家は長井時秀、宗秀、貞秀、挙冬(たかふゆ)と続きます。長井挙冬(たかふゆ)の弟が長井広秀で、この長井広秀が片倉城を築城した考えられている訳です。
長井広秀は足利尊氏の執事ともなった人物。その子孫の長井広房は扇谷上杉朝昌の娘を正室とします。しかし、1504年に山内上杉顕定・足利政氏連合軍と扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲連合軍が激突した立河原の戦いでは初沢城主の長井広直が一族の多くとともに討死。長井広房の子が長井広直だと考えられています。つまり、長井広直の代には武蔵長井氏は片倉城から本拠地を初沢城に移していたのでしょう。応仁年間(1467〜69)までは長井氏の居城は片倉城だったと言われています。
立河原の戦いで一族の多くを失った武蔵長井氏は歴史の表舞台から姿を消します。代わって、扇谷上杉氏の重臣で武蔵国守護代の大石氏が片倉城を管理するようになります。更に、八王子城主の北条氏照が片倉城を受け継ぎ改修を行ったとされます。
その片倉城も八王子城落城とともに運命を共にしました。
西曲輪
主郭/東曲輪
主郭と西曲輪を隔てる空堀
腰曲輪に鎮座する住吉神社。2015年5月訪問