古河城

藤原秀郷の子孫である下野小山氏の一族である下河辺氏の築城に起源を持つお城。小山政光の弟である下河辺行義は下総国葛飾郡下河辺庄を源頼政を介して鳥羽院に寄進。ここに下河辺氏は小山氏から独立することになります。

下河辺行義は荘官として古河に本拠を置き下河辺庄を支配しました。一方で、源頼政は以仁王挙兵時に平家に敗れて自刃。その首を郎党が下河辺行義に届け、行義は下河辺庄に葬ったといいます。これが古河城の頼政曲輪です。現在は河川改修によって移転されているが頼政神社として祀られています。

古河に城館を築いたのは下河辺行義の子の行平と伝わります。行平の子孫は下河辺荘の東の下総国幸島郡へと勢力を伸ばしていきました。

しかし、下河辺行平以降は古河城は鎌倉幕府執権の北条氏の一族である金沢家に支配が移ったと考えられています。これに伴って、下河辺氏は金沢家の郎党となりました。

鎌倉幕府が新田氏、足利氏によって滅ぼされると古河城は足利氏の拠点の一つとして組み込まれます。そして、鎌倉公方家が成立すると古河は御料所とされます。

室町幕府8代将軍足利義政の時、第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺し享徳の乱が勃発(1455)。室町幕府の命によって今川範忠が鎌倉に侵攻すると足利成氏は古河に本拠地を移します。古河は鎌倉公方を支持する小山氏、結城氏の勢力圏に近かった点も移った理由の一つなのでしょう。

鎌倉公方足利成氏は当初は古河鴻巣の古河公方館を拠点としました。その後、立崎の古河城を改修し古河城を居城とします。以降、古河城は関東の中心となります。

扇谷上杉家家宰の太田道灌は古河城への対抗として江戸城、岩槻城、河越城を築城しています。

第3代古河公方足利高基は関東管領上杉顕定と結んで勢力挽回を図ります。これに対して、第4代古河公方足利晴氏は反発し北条氏綱と結んで氏綱の娘の芳春院を嫡子の晴氏の妻に迎えます。1538(天文7)年、第4代古河公方足利晴氏は北条氏綱とともに敵対する叔父の小弓公方足利義明を第一次国府台合戦で滅ぼします。

1545(天文14)年、今川義元が関東管領山内上杉憲政と同盟し駿河にあった北条領に侵攻。これに対して、北条氏康は駿河に出兵。時を同じくして、北条氏による実質的な支配を嫌悪していた古河公方足利晴氏は関東管領山内憲政と同盟。更に、山内上杉憲政と扇谷上杉朝定も同盟を結びます。

この頃、扇谷上杉朝定は居城であった河越城を北条氏綱に奪われ武蔵松山城に居城を移していました。そして、両上杉軍と古河公方軍は北条氏康の義弟の北条綱成が城主を務める河越城を約8万の軍勢で包囲しします。

今川義元と和睦した北条氏康は北条綱成救援の兵を率いて小田原を出陣。北条氏康は奇襲作戦によって両上杉陣営に突入(河越夜戦)。この戦いで扇谷上杉朝定は討死。関東管領山内上杉憲政は戦場を辛うじて脱出し平井城に落ち延びます。続いて、北条綱成が河越城から出撃し足利晴氏陣営に突入。両上杉軍が総崩れになっていたこともあり古河公方軍は壊滅状態となり、足利晴氏は古河へと逃げ帰りました。

北条氏康は足利晴氏を助命するも退位させます。そして、北条氏康の娘の芳春院と足利晴氏との間に生まれた義氏を第5代古河公方に据えます。足利義氏は小田原城で生まれて葛西城で元服。居城は古河城ではなく関宿城でした。

この間、足利義氏の兄弟の藤氏は1557(弘治3)年に古河城奪還のために挙兵するも失敗。父の足利晴氏は栗橋城に幽閉。藤氏は追放されます。足利藤氏は家臣の簗田晴助とともに里見義堯を頼って房総に逃れます。里見義堯は関東管領山内上杉憲政を庇護していた長尾景虎(上杉謙信)に救援を要請。

1561(永禄4)年、長尾景虎は関東管領山内上杉憲政、関白近衛前久を擁して関東へ出兵。足利義氏を追放し藤氏を古河公方に据えます。この功によって長尾景虎は関東管領山内上杉憲政から上杉家の家督と関東管領職を譲られ上杉謙信となったのです。

ところが、上杉謙信が越後に戻ると、北条氏による古河城攻撃が行われ、足利藤氏は里見家臣である多賀信家が城主を務める上総池和田城へと落ち延びるはめに。

以降、1562(永禄5)年に古河城で北条軍の捕虜となるまで足利藤氏は古河城を何度か奪還したとされます。結局は北条の捕虜となった足利藤氏は1566(永禄9)年までには北条氏康によって処刑されたと考えられています。

越相同盟が締結されると古河公方足利義氏は上杉謙信からも正当性を認められるようになります。その後、足利義氏が亡くなると嫡男が早世していたために娘の氏姫が古河城主となりました。


頼政神社

1590(天正18)年に豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅ぶと氏姫は古河城からの退去を求められます。氏姫は鴻巣御所(古河公方館)へと退去。翌年、豊臣秀吉は小弓公方足利義明の孫である足利国朝と氏姫とを結婚させ古河公方家の存続を図ります。ここに古河公方家と小弓公方家の統一が図られたことになります。

足利国朝は喜連川に所領を得ましたが、氏姫は同行せず鴻巣御所(古河公方館)に住み続けました。足利国朝の病死後に氏姫は国朝の弟の頼氏と結婚。足利頼氏と氏姫の子孫が喜連川藩主家となります。