多賀谷城
茨城は下妻にある多賀谷氏の居城です。
多賀谷氏は武蔵七党の野与党の有賀頼基の二男光基を祖とする家で武蔵国騎西庄多賀谷郷が発祥の地。騎西の大福寺に多賀谷氏館があります。そこを本拠地としていました。埼玉郡は中世以降、東が太田、西が騎西(埼西)と呼ばれるようになります。東の太田庄を発祥の地としていたのが藤原秀郷流太田氏。1183(寿永2)年に源為義の三男の志田義広と源為義の長男・源為朝の子の源頼朝が戦った野木宮合戦で太田行光の孫の太田行朝は源頼朝方として戦って太田庄を安堵されています。しかし、1192(建久5)年に久伊豆神社の神人を殺傷した罪によって太田行朝は太田庄を没収。太田氏は没落し、太田行光の子で下野小山荘を本拠地とした小山政光を祖とする小山氏らが発展します。
1335(建武2)年、足利尊氏と新田義貞が干戈を交えた箱根・竹之下の戦いで新田義貞を破った戦功から小山朝氏(-1382)が太田庄を拝領。当時、小山氏の本拠地である祗園城は足利尊氏の北朝軍の南朝奥州勢に対する拠点となっていました。ところが、南朝軍との戦闘の最中に小山朝氏は捕虜となってしまいます。小山朝氏は一族で南朝方だった陸奥白河城主の結城宗広の仲介によって釈放されますが、後醍醐天皇の孫で、大塔宮護良親王の王子の興良親王(征夷大将軍)を祗園城に迎え入れざるを得ない状況となります。
興良親王は南朝方の関城と大宝城が陥落すると関東を脱出。小山朝氏は、南朝に与した訳でも北朝に留まった訳でもない状態で1346(貞和2)年に亡くなります。
小山朝氏の跡は弟の氏政が継ぎ、再び足利尊氏方として全国を転戦します。この氏政が27歳の若さで亡くなると、子の義政が跡を継ぎました。
小山義政が下野守護職に任ぜられると下野国司の宇都宮氏との対立が激化。遂には宇都宮基綱が敗死する事態となります。この事態に対して、第2代鎌倉公方足利氏満(1359-1398)は小山義政(-1382)を討伐。小山義政の死によって小山氏は断絶しますが、足利氏満は名門の断絶を惜しんで小山氏の庶流の結城基光の次男の泰朝に小山氏を継がせました。
この過程で、武蔵国の太田庄は結城氏の所領となり、隣接する騎西(埼西)の地にも結城氏の影響力が及ぶようになります。騎西(埼西)の多賀谷庄は小山領に属していたため、多賀谷庄の地頭だった多賀谷氏も小山氏から所領を引き継いだ結城氏の家臣団に組みいれられていくことになります。
第4代鎌倉公方・足利持氏(1398-1439)が室町幕府第6代将軍・足利義教(1394-1441)に叛旗を翻し、関東管領山内上杉憲実によって攻められ、1439(永享11)年に戦いに敗れ自刃。1440(永享12)年、結城氏朝・持朝父子が足利持氏の遺児の春王丸・安王丸を擁立して結城城で決起。結城氏は幕府軍に敗れますが、結城氏朝の末子の成朝は多賀谷氏家(1408-1465)によって結城城から脱出し佐竹氏のもとで養育されます。
この結城合戦によって結城氏は一旦滅び、旧結城領は結城氏朝の弟で山川氏に入嗣していた氏義の支配下に置かれます。
室町幕府将軍足利義教が1441(嘉吉元)年に赤松満祐によって暗殺されると越後守護上杉房朝、室町幕府管領畠山持国らが鎌倉府再興を支持。1447(文安4)年に信濃佐久郡の大井持光に養育されていた第4代鎌倉公方・足利持氏の遺児・万寿王丸が鎌倉に帰還し第5代鎌倉公方・足利成氏となります。鎌倉公方を輔佐する関東管領には山内上杉憲実の子の憲忠が山内上杉家の家宰・長尾景仲によって擁立されます。同時に、佐竹氏にあった結城成朝は足利成氏によって結城氏再興を許されます。
しかし、1454(享徳3)年、鎌倉公方・足利成氏と関東管領・山内上杉憲忠の対立が激化。結城家の家臣である多賀谷氏家は鎌倉公方・足利成氏の命令によって鎌倉で山内上杉憲忠を暗殺。この戦功によって、多賀谷氏家は下妻三十三郷を与えられます。
足利成氏は鎌倉から古河へと移り室町幕府と関東管領との間で享徳の乱を戦うことになります。結城成朝が室町幕府へと内通し始めると、多賀谷氏家の弟の多賀谷高経は結城成朝を暗殺。多賀谷氏は成朝との家督争いに敗れた成朝の兄・長朝の子である氏広(1451-1481)を結城家の当主として擁立します。
多賀谷氏の家督は多賀谷氏家から高経へ、そして、高経の子の家稙に移ったと考えられます。多賀谷高経は飯沼氏一族の堀戸氏が城主だった関城を奪い居城とします。1455(康正元)年、多賀谷家稙は多賀谷城を築城し本拠地を移します。
結城氏は結城氏広が亡くなると子の政朝が家督を承継。しかし、幼少であったために、多賀谷家稙の甥の多賀谷和泉守の輔佐を受けて治政を行います。よくある例で、多賀谷和泉守は次第に専横を極めるようになります。
これに対して、多賀谷家稙は結城政朝の了解のもと1499(明応8)年に多賀谷和泉守を討伐。これによって結城政朝は家中の秩序の乱れを収拾することに成功。しかし、次の混乱の種が古河公方家から齎されます。
第2代古河公方・足利政氏(1462-1531)は関東管領山内上杉顕定の鎌倉府体制復帰の提案を受入れ、弟の顕実を山内上杉顕定の養子とし、次男の空然(後の足利義明)を鶴岡八幡宮別当とします(1505年)。しかし、足利政氏の子の高基は長年の敵である上杉家との和解に反対し対立が起こります。
その最中、1506(永正3)年、越後守護代・長尾能景が一向一揆との戦いのため越中国に出兵中に討死。長尾能景は越後守護・上杉房能に救援を求めたものの見捨てられたと言われます。越後守護代の地位を継いだ長尾為景(-1489)は上杉房能の婿で上条上杉氏出身の上杉定実(1478-1550)を擁立して上杉房能を攻め自害に追い込みます。越後守護・上杉房能の実兄である関東管領山内上杉顕定は報復のために越後に大軍で侵攻。一時、長尾為景は佐渡に逃亡しますが、外祖父の信濃中野の国人領主・高梨政盛(1456-1513)の援軍派遣により反転攻勢し、長森原の戦いで山内上杉顕定を討ち取ります(1510年)。当主の討死によって山内上杉侵攻軍は崩壊します。
上野白井城にあった山内上杉顕定の養子の上杉憲房(1467-1525)は顕定討死の報せを受けると即時撤退。古河公方・足利政氏の弟で山内上杉家の跡継ぎと定められていた上杉顕実(-1515)と関東管領職を巡って戦闘に入ります。上杉顕実は実兄の古河公方・足利政氏に援軍を求めると、上杉憲房は古河公方・足利政氏と対立する子の足利高基と同盟。上杉顕実は総社長尾顕方、成田顕泰に支援され鉢形城で対抗するも、1512(永正7)年に足利長尾景長、横瀬景繁らによって攻められ古河に逃亡。1515(永正8)年、上杉顕実が古河で亡くなると、関東管領職は上杉顕実が握ることになります。
永正の乱と呼ばれた上杉憲房と顕実の山内上杉家内部紛争の中で、多賀谷家稙は小山・佐竹・岩城氏らと古河公方・足利政氏方として、結城政朝は小田・宇都宮氏とともに足利高基方として戦いました。山内上杉家の家督は上杉顕実が握ったために多賀谷家稙は敗れるという結果に終わります。足利高基は第3代古河公方となり、父親の政氏を出家させます。また、この永正の乱の中で、上総の真里谷武田信清が山内上杉顕定と足利政氏によって鶴岡八幡宮別当に据えられていた足利政氏の次男の空然を還俗させて足利義明として小弓城に迎え小弓公方として擁立しています。関東は大乱の様相を呈していたのです。
2014年8月2日訪問