入間川御所

初代鎌倉公方の足利基氏(1340-1367)が観応の擾乱後に足利直義方の上杉憲顕に対抗するために1353年から1362年の9年の間、御所を構えた場所です。

観応の擾乱の際には、新田義貞の遺児の義興・義宗兄弟が児玉党・丹党・村山党・横山党・猪俣党ら武蔵七党とともに挙兵し、足利尊氏方の河越・江戸・豊島・高麗・高坂・金子(村山党)が与して戦いました。

足利直義は桃井直常・斯波高経・山名時氏を率いて京都から、自派の勢力圏内にあった北陸・信濃を経て鎌倉に入ります。これを足利尊氏が仁木頼章・仁木義長・畠山国清を率いて追撃。駿河国薩埵峠で両軍は激突。足利直義は敗れて兄の軍門に下り鎌倉に幽閉の後に急死します。

薩埵山の戦いの後に、足利尊氏は直義方の関東執事の上杉憲顕(1306-1368)を信濃に追放し畠山国清(-1362)を関東執事に据えました。上杉憲顕が守護であった上野国・越後国は下野国の宇都宮氏綱(1326-1370)に与えられます。

しかし、上野国・越後国ともに上杉家の強い影響下にあったために、新関東執事の畠山国清は鎌倉公方・足利基氏を上野国からの軍勢が鎌倉攻略する際の防波堤となる地である入間川と鎌倉街道との交点に御所を構えたのです。

入間川御所の場所は徳林寺から新田義貞駒繋の松で知られる八幡神社に掛けてと言われています。新田義貞の故事でも分かるように、入間川御所の設けられた地は昔から戦略的に重要な地だったと言えます。