騎西城
埼玉は加須にあるお城。
1455(康正元)年に、初代古河公方の足利成氏(1438/34-1497)が関東管領の山内上杉房顕(1435-1466)の家宰・長尾景仲(1388-1463)と庁鼻和上杉憲信(性順)の籠城する騎西城を攻め落としたという記録が残されています。つまり、その時までは山内上杉方の城として騎西城が機能していたということになります。
その後、種垂城主で常陸小田氏の一族の小田顕家(-1539)が騎西城の城主となっています。小田顕家は忍城主の成田親泰(-1545)の宗長(朝興)を娘婿として城主の座を譲ります。
1561(永禄4)年に上杉謙信が後北条氏第3代・北条氏康(1515-1571)に奪われていた武蔵松山城を1559(永禄2)に奪い返し、岩槻城主・太田資正(1522-1591)を城代とし、扇谷上杉家の当主として擁立されていた扇谷上杉新蔵人憲勝を城主として配置します。
ところが、1563(永禄4)年に北条氏康・武田信玄の連合軍が武蔵松山城に攻めかかります。これを聞いた上杉謙信は救援に駆けつけようとしますが間に合わず、武蔵松山城は落城。石戸城まで来ていて落城を知った上杉謙信は激怒。扇谷上杉新蔵人憲勝の子を斬り捨て、怒りを騎西城に向けて小田朝興の守る城を攻め落としたと言われています。
1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原征伐の後は徳川家康によって松井松平康重(1568-1640)が城主となります。その次に、1601(慶長6)年に大久保忠常(1580-1611)、その子の大久保忠職(1604-1670)が城主となります。1614(慶長19)年に大久保長安事件に連座して大久保忠職の祖父・忠隣が改易されましたが忠職は外祖母が徳川家康の長女・亀姫だったために特別に赦されて蟄居処分ではあるものの騎西藩主に留まっています。
1625(寛永2)年に蟄居処分も解かれて、1632(寛永9)年には3万石加増の5万石で美濃加納藩へと転封となり、それに伴って騎西城は廃城となりました。