一色氏館

埼玉にある幸手駅の周辺には,かつて,古河公方足利氏の家臣の一色氏の館がありました.今では市街地の中に飲み込まれて,名残は「城山」「陣屋」地名伝承と一色稲荷だけになってしまっています。稲荷は一色氏の館の辰巳(南東)の方角に建立されたと伝わります.また,駅の南側を流れる倉松川は館の堀として利用されたと考えると館の大きさを想像できます.

一色氏はもともと足利氏の支族.足利氏第4代当主足利泰氏(1216-1270)の子の公深(-1330)が幡豆郡吉良荘一色郷の地頭職を与えられ一色を名乗ったのが始まりです.一色氏は室町幕府のもとで発展を遂げますが,その一族の中から関東に戻って来たのが幸手一色氏になります.

1416(応永23)年の上杉禅秀の乱においては,第4代鎌倉公方足利持氏(1398-1439)の命で一色兵部大輔直兼とその子の左馬助持直,左京亮長兼らが出陣しています.また,1426(応永33)年には一色時家(-1477)が足利持氏の命を受けて甲斐の武田信長(-1477)と郡内の猿橋で戦っています.このように,一色氏は鎌倉公方の家臣として活躍していました.

1438(永享10)年に,信濃守護小笠原政康(1376-1442)と村上頼清の所領争いへの介入を巡って,足利持氏と関東管領上杉憲実(1410-1466)が武力衝突するに至ります(永享の乱).上杉憲実は鎌倉から上野平井城に引き上げると,室町幕府将軍足利義教は駿河守護の今川範忠に上杉憲実の支援を命じます.

これに対して,鎌倉公方足利持氏が派遣したのが一色時家.室町幕府側も信濃守護の小笠原政康に鎌倉公方軍の撃破を命じて対抗します.両軍は上野板鼻で衝突し,一色時家は敗れます.加えて,鎌倉を守備していた三浦時高(1416-1494)は上杉憲実方に転じ鎌倉から退去したことで,鎌倉公方足利持氏は劣勢となります.そして,一色時家の伯父の一色直兼(-1438)らの近臣とともに称名寺に入り室町幕府への恭順を誓います.しかし,室町幕府将軍足利義教は鎌倉公方足利持氏を許さず討伐軍を差し向けて,足利持氏と近臣らを自刃に追い込みました.

一方,一色時家は一族の本拠地である三河への脱出に成功します.当時,三河守護は同じ一色氏の一色義貫(1400-1440).一色義貫は丹後・若狭・山城の守護も兼ねる実力者.一色時家は三河守護の一色義貫の庇護の下で牛久保に一色城を築城し新たな本拠地とします.もっとも,鎌倉公方足利持氏の残党の一色時家を匿ったために,一色義貫は室町幕府将軍足利義教の命を受けた安芸武田氏の嫡男・武田信栄(1413-1440)により追討を受け,大和信貴山の竜門寺で自刃に追い込まれています.武田信栄は戦功によって若狭守護となりますが,戦傷がもとで同じ年に急死してしまいます.

さて,鎌倉公方足利持氏とともに自刃した一色直兼の養子であった一色直明とその嫡男・亀乙丸は永享の乱後に殉死しています.一色直明の次男・直清は伯父の一色伊予守とともに結城合戦で足利持氏の遺児の春王丸・泰王丸兄弟を擁して戦います.しかし,この戦いも室町幕府軍によって鎮圧され,一色伊予守も討死.生き残った一色直清は叔父・一色長兼の遺領の武蔵幸手に落ち延びます.

一色直清の孫の直朝は鎌倉公方足利持氏の子孫である第4代古河公方足利晴氏(1508-1560)、第5代古河公方足利義氏(1541-1583)の奏者衆として仕えています.一色直朝は,北条氏綱の娘の芳春院を母に持つ足利義氏が死去すると,一色氏の主流の座を庶流の一色氏久に奪われ北条家の家臣となります.一色直朝の子の義直は豊臣秀吉の小田原征伐の際には,岩槻城を攻めていた浅野長政の軍勢に加わっているので,その時までに豊臣側に降伏したと考えられます.これには,古河公方家の中での要職を奪われたことと,北条家臣団の中で与えられた地位の低さが関係していたのでしょう.

その後,一色義直は徳川家康に仕え,幸手5,160石を宛がわれています.