旧二条城
織田信長が永禄12(1569)年に室町幕府第15代将軍足利義昭の居城として築城したお城。
徳川家康が築城した現在の二条城の北東約1kmの平安女子学院高・中学校、京都御苑(京都御所)と烏丸通りを挟んだ位置にありました。
永禄11(1568)年に、織田信長に擁立されて上洛した足利義昭は、当初、本圀寺を宿所としていました。
ところが、翌年1月、織田信長によって駆逐されていた三好長逸・三好宗渭・岩成友通ら三好三人衆が、美濃を追われ亡命生活を送っていた斉藤龍興と組んで本圀寺を襲撃します(本圀寺の変、六条合戦)。
本圀寺を守備する明智光秀らは三好三人衆軍の薬師寺貞春らの猛攻を防ぎ、その間に織田方の細川藤孝、三好義継、摂津国衆の伊丹親興・池田勝正・荒木村重らが後詰に駆け付けます。三好三人衆軍は桂川まで押し戻され敗れました。この戦いで、三好三人衆の客将となっていた府中小笠原家の一族で武田信玄による伊那侵攻まで鈴岡城主であった小笠原信定(1521-1569)が討死。
本圀寺襲撃の急報を受けた織田信長は岐阜城を発って急遽上洛。2月2日に二条城の築城に着手、4月4日に足利義昭を二条城に迎えます。天守の役割を担った櫓があったとも伝わります。
この地は勘解由小路室町真如堂跡地であり、室町幕府第13代将軍足利義輝(1536-1565)の時代に幕府(烏丸中御門第)が置かれていた地に重なることが、この地が選ばれた所以でしょう。
発掘され京都御苑椹木口に復元された石垣
天正元(1573)年3月、足利義昭は義織田信長に叛旗を翻し槇島城に籠城。これに呼応して、古二条城には日野輝資、高倉永相、幕臣の伊勢貞興・三淵藤英らが籠城します。しかし、織田信長軍の包囲によって足利義昭軍は降伏。足利義昭は追放。古二条城も天正4(1576)年には天守の代わりを務めた櫓や門を含めて解体されたと伝わります。
2016年3月訪問