沼田城

かつての上野国利根郡、今の群馬県沼田市にある真田家ゆかりの城。

利根川と薄根川の合流地点の河岸段丘に位置する沼田城は、享禄5(1532)年に沼田顕泰によって築城されたと伝わります。沼田氏は、『沼田町史』によると宝治合戦で自刃した三浦泰村の弟・家村を祖とする家。諸説あるものの、沼田一帯を三浦氏系の沼田氏が治めていたのは確かなようです。沼田顕泰は長尾景春(1443-1514)の娘を妻とし、娘は安中重繁、長野業正に嫁がせています。

沼田顕泰は万鬼斎とも称しましたが、沼田家は上杉憲政派と北条氏派に分裂。天文20(1551)年に関東管領上杉憲政が北条氏康による攻勢に耐えきれず居城の平井城を出て沼田城に落ち延びます。沼田顕泰は白井長尾憲景と相談して上杉憲政を越後の長尾景虎のもとへと亡命させることにします。

その後、沼田城は北条方の手に落ち、玉縄城主・北条綱成の次男で江戸城代だった北条氏秀(-1583)が沼田氏の名跡を継ぎ、沼田康元と名乗って沼田城主となります。しかし、永禄3(1560)年に長尾景虎が庇護していた関東管領・上杉憲政(1523-1579)の要請と、北条氏康軍に久留里城を包囲された里見義堯(1507-1574)からの救援要請を受けて、永禄3(1560)年に上野国へと侵攻。岩下城、厩橋城とともに、沼田城を落城させます。沼田康元は落城に伴い討死したとも伝わりますが、永禄5(1562)年に江戸城代の太田康資(1531-1581)が上杉方に転じて出奔したことに伴って、江戸城代となっています。ちなみに、この太田康資の出奔が原因で第2次国府台合戦が勃発しています。

長尾景虎が沼田城を手中に収めると、再び沼田顕泰が返り咲きます。城主は子の朝憲がそのまま務めたようです。

沼田顕泰は隠居し末子の平八郎景義と川場で余生を過ごすようになります。ところが、景義の母親が景義に沼田家の家督の座を望み、兄の金子美濃守泰清と謀って、沼田城主・沼田朝憲を川場で暗殺してしまいます。

沼田朝憲が謀殺されるとの報せに接した沼田家臣団は沼田顕泰を討とうと川場に殺到。沼田顕泰は敗れ景義とともに会津城の芦名盛重を頼って落ち延びました。金子泰清は越後へと亡命します。

この沼田氏の内紛によって沼田城は上杉謙信により沼田三人衆と呼ばれた松本景繁・河田重親・上野家成が城代として置かれ、北条丹後守高広が城代を務める厩橋城との連携拠点とされます。

天正6(1578)年に上杉謙信が急死し、北条家から上杉家に養子に入っていた上杉景虎と、上田長尾氏から養子に入った上杉景勝が御館の乱で上杉家の家督を争うと、上杉景虎を支援するため、北条氏政が北条氏邦を大将として沼田城を攻略。金子泰清は、猪俣邦憲・藤田信吉とともに沼田城代となります。上杉景勝が上杉景虎に勝利し沼田城に動揺が広がると、真田昌幸は武田勝頼の命によって調略を始めます。天正8(1580)年の事です。

真田昌幸は矢沢頼綱を沼田・名胡桃両城攻略のために出陣させるとともに、名胡桃城主・鈴木主水正重則と沼田城代・金子泰清に内応の説得をします。そして、名胡桃城主・鈴木重則が調略に応じて武田方に転じると、続いて、沼田城代・金子泰清と藤田信吉も真田昌幸の調略に応じて沼田城を明け渡しました。こうして、沼田城は真田昌幸が支配するところとなります。

ここに、会津に亡命していた沼田景義が天正9(1581)年に金山城主・由良国繁らの支援を得て沼田城奪還のために挙兵。しかし、この挙兵も真田昌幸の計略によって、金子泰清が沼田景義を城内に入れて殺害させたことで幕が下ります。

これで沼田城が城主が落ち着いたかというとそうではありません。

2016年4月2日訪問