高品城

康正元(1455)年に第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺すると、室町幕府8代将軍足利義政が鎌倉公方足利成氏を討伐するために駿河守護今川範忠に出兵を命じ、享徳の乱が勃発します。

千葉氏では足利成氏に呼応ひた分家の馬加康胤と重臣の原胤房が挙兵して本家の千葉胤直・胤宣父子を倒して家督を奪います。将軍足利義政は、千葉氏一族の美濃郡上郡篠脇城主東常縁を派遣して馬加康胤に村田川で討ち取られます。馬加康胤の嫡男・馬加胤持も討死。馬加康胤の次男とも伝わる岩橋輔胤が千葉家臣団に当主として擁立されます。

千葉(岩橋)輔胤を祖とする後期千葉氏は千葉城の周囲を室町幕府側(=上杉側)の勢力に押さえられていたために、本拠地を本佐倉城に移します。しかし、千葉家の嫡男の元服式が千葉妙見宮で行われるという古来からの仕来りは守られます。このための宿舎として用いられたのが千葉の高品城。

永正2(1505)年に元服した千葉昌胤が元服を行った際の高品城の城主は安藤豊前守とされています。但し、大永3(1523)年の千葉利胤の元服の際は古河公方に対抗する小弓公方・足利義明の勢力が高品城のすぐ近くまで及んでいたために、佐倉妙見宮での元服式を余儀なくされています。元亀2(1571)年の千葉邦胤の元服の際には里見義弘が生実城を占領していたため、高品城に入ることが出来ず、佐倉妙見宮での元服式となっています。

このように、高品城は千葉氏と里見氏との前線としての役割を担わざるを得なくなっていきました。

2016年3月26日訪問