三好元長の墓
堺の顕本寺にある.顕本寺は,大坂夏の陣[1615〔慶長20〕]の兵火に遭って現在地に移転するまでは開口神社の近くにあったという.
三好元長は天下人の先駆けと称される三好長慶の父.
阿波に逃れていた室町幕府第10代将軍足利義稙の養子である足利義維を擁立.足利義維は室町幕府第11代将軍足利義澄の実子.合わせて,細川晴元を細川京兆家の当主として擁立.
少し遡ると,半将軍とも言われた細川政元に子がいなかったため,関白九条政基の二男の澄之,阿波細川家の澄元,細川野州家の高国を養子とした.後継問題の拗れから澄之派が細川政元を暗殺[細川殿の変〔1507〕].これに対して,細川澄元は重臣の三好之長に命じて細川澄之を攻め自刃させる.これで終わりにならず,阿波勢に反感を抱く家臣団が細川高国のもとに結集し,両細川の乱[1509/1532]が繰り広げられる.永正17[1520]年5月5日,等持院の戦いにおいて,細川澄元と三好之長は敗北.三好之長は捕えられて処刑.細川澄元は阿波に逃れた後に病死.
既に父を亡くし三好之長の後継者として養育されていた三好元長は,細川澄元の子の細川晴元を擁立し,宿敵の細川高国を大物崩れで破り自刃に追い込んだ.
細川高国との戦いの中で,室町幕府第12代将軍足利義晴の政権に対抗し,三好家の拠点であった堺に堺幕府を樹立.
しかし,三好元長の勢力拡張に脅威を感じた細川晴元が足利義晴と組んで本願寺の証如を動かし,一向一揆の軍勢に堺を攻めさせる.
大軍勢を前に劣勢となった三好元長は顕本寺で自刃.その場所は,開口神社の近くにあった顕本寺.
堺市堺区宿院町東4丁@2014-04
今日も街角をぶらりと散策.
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