出世稲荷
1617[元和3]年,元吉原の関係者で,かつて小田原北条家に仕え親父と呼ばれていた庄司甚右衛門ら数名の仮屋敷内に京都伏見稲荷を勧請したことを起源とする神社.庄司甚右衛門[天正3〔1575〕/寛永21-11-18〔1644-12-17〕]は吉原遊郭の創始者であり,江戸幕府の許可を得て現在の日本橋人形町2・3丁目から日本橋富沢町に掛けての日本橋葦屋町の北外れに広がっていた二町四方の湿地帯に吉原を開いた人物.吉原の惣名主に任ぜられた.
庄司甚右衛門の子孫は代々名主を継承し,かつ江戸町一丁目で西田屋という遊女屋を営んだことが知られている.甚右衛門の次は甚之丞が,その次は又左衛門,その次も同名の又左衛門[勝豊]が継いだ[新吉原由緒書].しかし,勝豊の代の延享4[1747]年頃に西田屋は廃業.
この神社は初代市川団十郎が日参して,名を馳せることが出来たことから出世稲荷の名がある.また,堀留町に合併した旧岩代町に鎮座していた岩代稲荷を合祀.
日本橋堀留町@2024-06
今日も街角をぶらりと散策.
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