東大和_東京

「大和」の名称は大正8(1919)年に6村が合併し、6ヵ村が大きく和してやっていこうという願いをこめて「大和村」となったことによる。
 それまでは、芋窪、蔵敷、高木、奈良橋、清水、および明治時代に合併した宅部、後ヶ谷の両地域からなる狭山村に分かれていた。
 このような6ヵ村7地域の大同合併は、丁度、その時期に東京市の水瓶である村山貯水池が着工されたことに刺激されたものといえる。
 この大合併以前は品川県と韮山県への分属を経て神奈川県多摩郡に編入を経て東京府へと編入された。
 東京府への編入は、明治26年2月18日に衆議院に提出された「束京府及神奈川県境域変更に関する法律案」による西、南、北の多摩三郡編入の理由書の中で「多摩川(玉川)上水水路ノ便益二関スルモノ是ナリ」として水源確保を理由として挙げている。
 しかし、玉川上水を抱える多摩2郡はともかく、南多摩までを含めた一括編入の真の意図は南多摩郡における自由党の活動を神奈川から放逐することにあったとも言われている。
 なお、多摩地方のうち、東多摩郡は明治11年に東京府に編入され、29年には南豊島郡と合併し、豊多摩郡となっている。
 さて、この大和村は昭和13(1938)年立川発動機製作所が出来たことに伴い「南街」が誕生したことにより一変する。
 この「南街」は現在の西武拝島線東大和市駅の前に広がる街区であるが、この街区の誕生で発展に勢いが付く。
 昭和29(1954)年の町制施行の後、団地建設によって人口は増加し、昭和45(1970)年に市制を施行し現在に至っている。