武蔵村山_東京
昭和45年11月3日に市制施行により「村山市」となるはずが、山形県に「村山市」があったために、旧国名である武蔵を冠して「武蔵村山市」となる。
「村山町」は昭和29年11月3日町制施行によって誕生。
この辺りは、「村山郷」と呼ばれており、平安末期には、武蔵7党の1つ村山党の勢力圏だった。下って、江戸時代には、中藤・横田・三ッ木・岸の各村が独立して存在していた。
明治元(1868)年の府藩県職制度によって、武州多摩郡中藤村、横田村、および三ツ木村の一部と岸村の御領分は韮山県下に入る。
4(1871)年11月の廃藩置県によって、4ヵ村が神奈川県に組み入れられ、22(1889)年4月には4ヵ村で北多摩郡「中藤村外3ヵ村組合」を設立。
この「中藤村外3ヵ村組合」は26年に東京府に編入され、その後、41年には中藤村と横田村の合併により「北多摩郡中藤村外2ケ村組合」が設立される。
現在の地域区画が定まったのは、明治22年に発足した中藤村、横田村、三ツ木村、岸村が大正6年4月1日に合併したことによる。
「村山町」は昭和29年11月3日町制施行によって誕生。
この辺りは、「村山郷」と呼ばれており、平安末期には、武蔵7党の1つ村山党の勢力圏だった。下って、江戸時代には、中藤・横田・三ッ木・岸の各村が独立して存在していた。
明治元(1868)年の府藩県職制度によって、武州多摩郡中藤村、横田村、および三ツ木村の一部と岸村の御領分は韮山県下に入る。
4(1871)年11月の廃藩置県によって、4ヵ村が神奈川県に組み入れられ、22(1889)年4月には4ヵ村で北多摩郡「中藤村外3ヵ村組合」を設立。
この「中藤村外3ヵ村組合」は26年に東京府に編入され、その後、41年には中藤村と横田村の合併により「北多摩郡中藤村外2ケ村組合」が設立される。
現在の地域区画が定まったのは、明治22年に発足した中藤村、横田村、三ツ木村、岸村が大正6年4月1日に合併したことによる。