川越_埼玉

入間川西岸に位置する。人口は33万人(1990年国勢調査)、面積は109.16ku。蔵造りの町並みが保存され小江戸川越として知られる。
この辺りは三芳野の里とも呼ばれたという。しかし、川越と言えば、秩父平氏であり常楽寺周辺に拠点を構えたという河越氏を抜きにして語ることは出来ないだろう。鎌倉幕府の御家人として重きをなしていた河越氏は、太郎重頼が娘を源義経の正妻としたり、重頼の子の重員が武蔵国留守所総検校職になる等武蔵国の有力氏族。
この河越氏も時代の流れに翻弄され滅亡を余儀なくされる。
室町時代には川越は太田道真・道灌が築いた川越城を中心に町が形成されていく。この太田氏は長禄元(1457)年に上杉持朝の命令によって三芳野天神そばの地に川越を築いて備えとした。その太田氏の仕えた上杉氏も関東の覇者である北条氏に支配権を奪われていく。しかし、交通の要衝でもあった川越の地は周囲の政治的状況が変化しても重要性を変えることはなかった。
北条氏が関東に覇を唱えた時代には川越城は北条氏の本拠地である小田原城の重要な支城の一つとして重きをなした。さらに、北条氏が滅び徳川氏が関東を支配するようになり、やがてその徳川氏が全国を支配下に治めると川越は徳川氏の本拠である江戸へ物資を輸送する拠点として一層重要視される。有力大名が川越に配置された所以である。
これが、現在、この川越が小江戸川越と呼ばれ親しまれていることの起源となっている。しかし、現在、目にすることの出来る美しい町並みは、江戸の昔からのものではない。川越は、徳川幕府が滅び時代が明治に移っても、物流の拠点であったということを活かして穀物・織物・たんすなどの産業で賑わった。全国に名が知れた一大商業都市だったわけである。その川越の町を悲劇が襲う。明治26(1893)年の大火である。この大火によって川越の町の3分の1を失ったという。この火事を契機として火事に強い蔵の町として再生する。これが、今日私たちが目にする川越の町並みということになる。
川越は大正11(1922)年に川越町と仙波村を合わせて埼玉県で初めて市制を施行。その後、昭和14年に田面沢村を編入。さらに、昭和30年、隣接する芳野村・古谷村・南古谷村・高階村・福原村・大東村・霞ケ関村・名細村・山田村の各村を合併して現在に至っている。