小笠原
小笠原諸島は数奇な歴史を持つ。
そもそも、小笠原の名称は文禄2(1593)年に小笠原民部少輔貞頼が発見したことに因むもの。しかし、これは経世家である林子平が紹介したものであり、現在では疑問が持たれている。
ちなみに、この小笠原氏は南北朝の時代に信濃守護職を務めた名門でしたが、甲斐の覇者武田信玄に小笠原長時が追放される。
長時は武田軍に追われた後に、越後の上杉氏を頼る。長男長高がその後の戦いで討ち死にしたことで一時閉塞。その子が長元。その子が貞頼。
この貞頼、豊臣氏が天下を取ると徳川家康に取り立てられて上州館林城主となって返り咲く。小笠原家の本流は、徳川によって長時の孫の秀政が松本城8万石に取り立てられて、こちらも再び世に出ている。
徳川恩顧ということで関ヶ原の戦いでは徳川方に属し、嫡子信濃守忠脩とともに討死。その功によって、松本から九州小倉15万石へ。
さて、貞頼。朝鮮出兵の帰り、大阪から江戸に海路で向う途中、小笠原を発見したのだという。
当然、貞頼の領地となるも、貞頼の家系が途絶えたことで小笠原諸島は沈黙する。
徳川吉宗の治世になると、小笠原家の旧臣が貞頼の末流を立てて幕府に小笠原渡航を願い出る。これは、当時、神沢杜口(1710-95)による『翁草』が世に出て小笠原諸島に再び脚光が当ったことも後押しして許可される。
しかし、大阪から出港した一団は帰らなかったという。
結局、小笠原に最初に定住したのは日本人ではなく欧米人とハワイの先住民。文政13(1830)年のこと。但し、発見者はあくまでも小笠原貞頼ということで、明治9(1876)年に正式に日本の領土として認められている。
混住の状態のまま小笠原は発展しするも、太平洋戦争の悪化によって昭和19(1944)年にはほとんど全ての住民が強制疎開となる。
終戦とともに、米軍占領下に置かれ欧米系住民のみの帰島が認められる。
日系島民の帰島が許されたのは、小笠原諸島が昭和43年に日本に返還されるまで待たなければならなかった。