島原武家屋敷
駅からお城の裏側へと回りこむように歩くと時代に切り取られたような異空間に出会う。鉄砲町、通称、武家屋敷街。町は碁盤の目になっていて山手から順に上新丁、下新丁、古丁、中の丁、下の丁、新建(島原城の前)、江戸丁と名付けられている。下の写真は下の丁の路地。真ん中に熊野神社を水源とする水路が引かれている。昭和24、25年までは各路地にあったというが、今は下の丁だけ。鉄砲町は扶持70石以下の鉄砲組徒士(かち)の屋敷690戸(各約90坪)を中心として築かれた。1624(寛永元)年の島原城築城時から1637(寛永14)年の島原の乱で城主松倉勝家が改易斬罪()されるまでの間に下の丁、中の丁、古丁が形成。1669(寛文9)年に福知山から松平(深溝)忠房が7万石で島原に封じられてから、上新丁、下新丁、新建が造成された。江戸丁というのは明治維新後に、それまで江戸にいた藩士のために新たに築かれたものという。
下の丁を真っ直ぐ歩くと、まず、鳥田邸が見えてくる。三河国吉田以来の松平(深溝)家家臣として幕末には御目見独礼格、7石2人扶持の家柄。
その先の向かいが篠塚順右衛門邸。松平(深溝)忠房入封の時に従って入ってきた家で、13石2人扶持で明治まで11代、代々順右衛門を名乗って続いた。
通りを挟んで休憩所の置かれてあるのが山本邸。忠房の父の三河国吉田城主松平(深溝)忠利からの家臣で13代続いた家。明治維新を17石2人扶持で迎えている。山本邸の地は旧お鷹部屋で、明治元年に最後の島原藩主松平忠和から勅許を得た門構えとともに移築されたものという。
2002年8月訪問。
下の丁を真っ直ぐ歩くと、まず、鳥田邸が見えてくる。三河国吉田以来の松平(深溝)家家臣として幕末には御目見独礼格、7石2人扶持の家柄。
その先の向かいが篠塚順右衛門邸。松平(深溝)忠房入封の時に従って入ってきた家で、13石2人扶持で明治まで11代、代々順右衛門を名乗って続いた。
通りを挟んで休憩所の置かれてあるのが山本邸。忠房の父の三河国吉田城主松平(深溝)忠利からの家臣で13代続いた家。明治維新を17石2人扶持で迎えている。山本邸の地は旧お鷹部屋で、明治元年に最後の島原藩主松平忠和から勅許を得た門構えとともに移築されたものという。
2002年8月訪問。