松倉家(肥前島原城)
祖の松倉秀政は筒井順慶に仕え島左近、森好之とともに筒井三老と称された(『筒井順慶葬式帳』)。出自は筒井順興の子とするもの、越中の人であり嘉吉年間に大和の筒井氏に従ったとするものなどがある。筒井順慶の子の定次が伊賀に移ると名張城主となっている。その子の重政は名張城主を継ぐが、後に、吉野五条8000石で豊臣秀吉に仕える。
関ヶ原では筒井定次とともに徳川方として戦い、吉野五条に1万石を安堵。大阪夏の陣の戦功により肥前国高来郡日之江城4万石を得る(1616[元和2]年)。フィリピンや台湾への遠征計画を目論むが病没。
日之江城4万石は養子の勝家に託される。しかし、圧政により島原の乱を招き、失政の責任を問われ、美作国津山藩森家に預けられ死罪。これによって、松倉家は断絶した。
2002年8月訪問。
関ヶ原では筒井定次とともに徳川方として戦い、吉野五条に1万石を安堵。大阪夏の陣の戦功により肥前国高来郡日之江城4万石を得る(1616[元和2]年)。フィリピンや台湾への遠征計画を目論むが病没。
日之江城4万石は養子の勝家に託される。しかし、圧政により島原の乱を招き、失政の責任を問われ、美作国津山藩森家に預けられ死罪。これによって、松倉家は断絶した。
2002年8月訪問。