1200年1月
相模国一ノ宮に城を築き立て篭もっていた梶原景時一族が夜陰に乗じて上洛。報せを受けた鎌倉方は追っ手を差し向ける。しかし、景時父子が駿河国清見関を通りかかった時、近隣の御家人がそのこそこそとしている姿を非常に怪しんで仔細を尋ねようとしたところ合戦となる。この合戦で梶原一族は前後挟み撃ちに遭い、景時とその子らの源太景季、平次景高、三郎景茂から九郎景連まで全員が戦死。鎌倉党梶原一族の嫡流は族滅に至った。後に、甲斐の武田信義の子の武田有義(-1200)が景時と同盟していたことが発覚し逃亡。二代将軍頼家の近習であった勝木則宗も与力していたとして捕縛。更に翌年には景時が預かっていた元平家方の城 長茂が京と越後で決起し討伐されている。