清和源氏本流

清和源氏はその名の通り、清和天皇の六男の貞純親王の子孫と長らく考えられてきた。しかし、1900年に星野恒氏の論文によって、永承元(1046)年の源 頼信が石清水八幡宮に納めた願文の記述を根拠として、清和源氏が実は陽成天皇の子孫であることが明らかにされた。

陽成天皇は清和天皇の子。清和源氏は、そこから出たことになる。しかし、この陽成天皇はあろうことか宮中で嵯峨源氏の 源 益 を手に掛けてしまう。公式には陽成天皇が犯人とはされなかったが、摂政であった藤原基経は天皇に退位を強要したこと、当時、天皇が『乱国の主』などと呼ばれたことが傍証となっている。

陽成天皇の子の元平親王は父親の不名誉のために皇位を継承することはなかった。経済的にはともかく政治的には完全に逼塞状態であったことになる。元平親王の子が清和源氏の祖と仰がれる経基王。政治的に逼塞していた経基王は承平8(938)年に武蔵介に任じられると、通常は遙任のところ、自ら辺境の地へと赴いた。そして、この経基王の過酷な武蔵国統治が 平 将門 による『天慶の乱』へとつながっていく。経基王は将門に恐れをなして逃げ出した形となったが、藤原秀郷、平 貞盛によって将門が討ち取られた時に副将であったことから『武略に長じる』との世評を得ることになる。この後、経基王は源氏を賜姓されたことで『清和源氏』が成立した。

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