藤原氏秀郷流
天慶の乱(935-940)で平将門(-940)を討ち取った藤原秀郷を祖とする関東の名門。秀郷は従四位下、下野守に任ぜられ、鎮守府将軍にも任命された。清和源氏六孫王経基の子で清和源氏の祖である源 満仲(912-997)と秀郷はほぼ同時代。やがては鎌倉幕府を打ち立てる源 頼朝の祖先と北関東に覇を唱えた武門藤原氏の祖が同時代の人というのは時代が産んだ偶然と言える。大きくは千時流と千常流に分かれる。そのうち、千常流の小山氏が下野(現在の栃木県)を本拠として東国武士団を形成するに至った。
鎌倉幕府のもとでは小山氏がいち早く頼朝のもとに馳せ参じ地位を確固たるものにした。実朝と深い関係を持った波多野氏、土佐24万石の太守山内氏を輩出した首藤氏も秀郷流。更に、奥州で清和源氏と戦った奥州藤原氏の祖の藤原経清も秀郷流。このように武門藤原氏の秀郷流は清和源氏との因縁が深い。
天慶の乱の後に関東では平忠常の乱(1028-1031)が起り、朝廷は平 直方に続いて、源 満仲の三男で藤原道長の四天王と呼ばれた頼信(968-1048)を派遣し鎮圧。頼信の武勇にほれ込んだ平 直方が本拠地の鎌倉を頼信の子で源頼義に娘とともに承継させた。これが源氏が鎌倉を父祖伝来の地としたことの由来。そして、頼信は鎌倉を足がかりとして東八平氏や秀郷流藤原氏と主従の契りを結んだ。頼信の子の頼義こそは前九年の役で秀郷流の藤原経清(?〜1062)と闘うのだ。