近衛家
藤原北家近衛流の嫡流で五摂家のひとつ。藤原基通が内大臣、摂政関白となり、京都近衛の北、室町の東に邸宅を構え、「近衛殿」と称したことからこの名の由来、のちに氏の名となった。鎌倉時代中期に家実の四男の兼平が鷹司家を立てて独立している。2度養子を迎えてるが、一度目は江戸時代初期で後陽成天皇の皇子信尋が、2度目は文麿の外孫で細川護貞の次男が承継している。菩提寺は京都大徳寺。
「恵林寺の山門から信長を見た時から、前久の決意は定まっていた。
これまで何とか信長と共存する道をさぐってきたが、これ以上譲歩をつづけて朝廷の権威を失墜させるわけにはいかない。そんなことは、前久の誇りが許さなかった。
近衛家の祖神である天児屋根命は、天照大御神から瓊瓊杵尊の統治を助けよとの命を受けてこの国に天下った。
以来中臣、藤原、近衛と姓こそ変わったが、一貫して朝廷を守り通してきた。
帝と朝廷を守ることこそが近衛家に生まれた者の大儀であり、そのためにはどんな策をろうすることもためらってはならない。
たとえ刺し違えてでも信長を滅ぼす覚悟を定めていたが、事は極秘のうちに進めなければならなかった。
万一発覚したなら、正親町天皇にまで累が及ぶ。」
安部龍太郎『信長燃ゆ〈下〉』