大関氏
大田原氏と同じく武蔵七党丹党流。しかも、大田原氏と同じく中世以来の領地を明治維新まで保った家柄。1542(天文11)年に予てから争っていた大田原資清と闘って大関増次は敗死。増次の父の宗増は宿敵大田原資清の子の高増に大関家の家督を譲った。ここに桓武平氏大掾流の小栗氏の流れを汲んでいた大関氏が武蔵七党のうちの丹党であるとの伝承を産む素地が造られる。この時に大関氏の居城も白旗城から黒羽城へと移っている。
豊臣秀吉の小田原討伐に際して高増は嫡男の晴増とともに参陣し1万3000石を安堵された。晴増の跡を継いだ弟の資増は関が原の戦いの功績によって加増を受けた。江戸中期には増陽の養子として伊予大洲藩主加藤泰衛の末子増業が入る。増業は気象や名水の研究で知られる。3代後の増徳は夫人お鉱の方との不和から藩主押し込めに至る家内騒動が勃発する。その後に養子に入った増裕は譜代大名の名門・西尾氏の出身であったため陸軍奉行、海軍奉行、若年寄などとして幕末の幕政に参与した。将来を嘱望されたが猟銃の流れ弾に当たって死亡。跡は丹波山家藩主谷衛滋の子の増勤(ますとし)が継承。戊辰戦争での戦功によって、明治2年賞典禄1万5000石を下賜されている。