佐竹氏
清和源氏義光流。八幡太郎義家の弟の新羅三郎義光の孫・昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に住んで佐竹を号したことが佐竹氏の始まり。昌義の母親は平繁幹の娘であり、父親の義業は常陸に下るに当たって常陸に勢力を張っていた常陸平氏の一門に連なることを選んだ。昌義の代になって常陸奥七郡を押さえ佐竹冠者を名乗り、常陸平氏とは別個の勢力を築く。奥州藤原氏とも結び、昌義の妻は藤原清衡の娘である。このことは奥州藤原氏と河内源氏嫡流との関係とを考えるとき重要な意味を持ってくることになる。また、1106年には足利・新田氏の祖となる源義国との間で、平大掾重幹とともに常陸合戦を闘っている。
男の忠義は大掾氏の家督を承継。昌義の跡を継いだ三男の隆義は常陸平氏とも清盛流の京都の平氏政権とも結んで地位を固めた。平治の乱では平清盛方に与している。当時、既に挙兵し鎌倉に入っていた源 頼朝にとって佐竹氏は同族ながら平氏と結び、なおかつ源氏の嫡流を狙う危険な存在。頼朝が富士川の合戦で平氏に勝利を収めた後も一気に京都へと攻め上らなかったのは、背後に平氏と結んだ佐竹氏があったからに他ならない。
源 頼朝は富士川の合戦の後、素早く常陸国府に出陣、佐竹氏討伐を開始する。そして、上総介広常が太田城に籠もる佐竹義政を常陸国府に誘引し、その途上で大矢橋においてこれを暗殺。これに対して、佐竹秀義は太田城を捨てて、より守りやすい金砂山城に篭城。秀義の叔父・佐竹蔵人義季の内応によって佐竹秀義を奥州花園山へと駆逐した(金砂山合戦[1180年])。
佐竹氏の復活は、1189(文治5)年の源 頼朝による奥州藤原氏征伐。この時に佐竹秀義は頼朝に帰順することを明確に示し、姻戚関係にあった奥州藤原氏討伐の軍に従った。この時に源氏の無地の白旗を立てたが、頼朝に源氏の白旗と同じだとして、扇を旗の上に書き足した。これが佐竹氏の家紋の始まりという。地位を回復し常陸介に任ぜられたとはいえ、常陸守護職は八田知家に与えられており、御家人としても厳しい立場に立たされたままだった。次代の義重(1186-1252)は承久の乱での活躍によって佐竹氏の鎌倉御家人としての地位の向上を図った。
しかし、八田知家の子孫の小田氏と常陸国守護を巡っての緊張関係は室町時代にまでも続いた。南北朝時代には貞義は足利尊氏に従った戦功によって常陸守護職を得ている。なお、夢窓疎石の高弟に月山周枢が貞義の子であり嵐山臨仙寺と深い関係にあったことも足利氏との関係の強化に役立ったと言える。但し、貞義と嫡男義篤は足利高氏に従って転戦した一方で、弟の師義は京都にあって幕府機構整備に佐竹氏を代表して当たった。師義は山入氏の祖であり、山入氏は京都様扶持衆にも任じられ、佐竹氏は、後にはこの山入氏との間で常陸守護職を巡って抗争を繰り返すことになる。加えて、常陸領内に大掾氏や那珂氏といった中世以来の独立領主層がいたために戦国大名として常陸を統一するには義舜(1470−1517)を待たなくてはならなかった。義舜は山入義藤・山入氏義父子に裏切られながらも、岩城常隆の支援によって山入一族を討伐。白河結城氏とも争って領国を拡大した。
第18代佐竹 義重(1547 - 1612)は北条氏、葦名氏、伊達氏との戦いを繰り返し挟み撃ちに会う形となった。しかし、豊臣秀吉の小田原征伐(1590)への参陣によって常陸54万石の所領を安堵された。この恩義に報いるために関が原の戦いでは西軍として戦い敗戦。1602年に、徳川家康の命によって出羽久保田20万石へと転封となった。