仙石氏
秀久の父で美濃の豪族久盛が土岐支流(清和源氏頼光流)の仙石氏の養子となったことを始まりと伝える。秀久は四男だったために越前の萩原伊予守国満に養子に出されるが兄達が亡くなったために仙石家の家督を承継した。美濃斉藤氏が織田信長に滅ぼされると信長の下にいた羽柴秀吉に仕えた。姉川の戦い(1570)で浅井方の山崎新平を討ち取った功によって近江野洲郡に1000石を拝領。順調な滑り出しであったが、賤ヶ岳の戦いに際して柴田方の長宗我部元親の討伐を命じられ、引田の戦いで大敗。しかし、紀州討伐では湯川一族討伐、第二次四国征伐時の喜岡城攻めなどを評価されて讃岐高松10万石の大名となった。
更に波乱は続く。1586(天正14)年から始まった豊臣秀吉のによる九州征伐の戸次川の戦いにおいて長宗我部信親、十河存保を敗死させ島津家久に大敗を喫したばかりか軍監であったにも関わらず勝手に小倉城に撤退したために改易となった。
面倒見の良いのは徳川家康。1590(天正18)年の小田原征伐で秀久を斡旋し、これに応えて箱根の仙石原などで武功を立てた。そして、見事、信濃小諸5万石の大名として復活したのである。
子孫は小諸藩から信濃上田藩、但馬出石藩へと移り明治維新を迎えた。