滋野氏
信州の本海野にある海野宿の鎮守である白鳥神社は海野一族の祖とされる貞元親王と善淵王を祀っている。海野一族は禰津、望月氏とともに信濃滋野一族の御三家と呼ばれた一族。
滋野氏の祖として清和天皇の皇子貞元親王が挙げられるが、貞元親王は大和国葛上郡楢原郷を本拠地とし楢原国造東人と名乗った滋野東人を祖先とする滋野朝臣一族の滋野恒蔭の娘を妻として滋野を承継したと考えられる。貞元親王は清和天皇の第三皇子で兄には第一皇子の陽成院、第二皇子の貞秀親王がいる。陽成院は清和源氏へと繋がっていく。貞元親王は桂に住んだことから桂の親王とも呼ばれた。但し、滋野氏と婚姻関係を結んだのは貞元親王ではなく弟の貞保親王であるという説もある。『続群書類従』では貞元親王ではなく貞保親王としている。しかし、当の白鳥神社で祀られているのは貞元親王。この点、醍醐天皇から滋野姓を賜った善淵王が祢津西宮に四之宮権現として祖父を祀っていることからすると、第三皇子の貞元親王ではなく第四皇子の貞保親王というのが正しいのだろう。この貞保親王が眼病を治療する目的で信州の深井に下り土着したという。伝説の域を出ず、滋野氏は朝廷の牧場を管理していた一族の末裔であり、皇胤を伝えるものではないとする説もある。どちらも今となっては確かめる術はない。
ともあれ、滋野氏が貞元親王の系譜を継ぐとしても、それ以前からの豪族であったという事実は否定出来ない。最初に滋野宿禰を賜ったのは798(延暦7)年の伊蘇志臣家訳の時。823(弘仁14)年には滋野朝臣を賜っている。この時点で滋野一族は都の人であり、滋野朝臣貞雄は現在の御所市大字楢原の駒形大重神社に祀られている。滋野一族と同族の楢原一族は大和にそのまま勢力を保ち鎌倉時代には大和六党のうちの南党の中に名を見ることが出来る。『日本三代実録』によると、貞雄の子の滋野朝臣恒蔭は868(貞観10)年に信濃介に任ぜられている。これが滋野氏が信州と繋がりを持った始まりと言える。恒蔭の子が清和天皇の貞保親王に嫁いだとされる。その影響で恒蔭の孫の恒信が950(天暦4)年に信濃望月牧監となって信州に下向したとされている。この滋野恒信が滋野幸俊である。
貞保親王の血をひいた善淵王は平貞盛と関係を結び平将門と一戦交えたことでも知られている。