富田氏
宇多源氏佐々木氏庶流。保元の乱、平治の乱で源 義朝に与した佐々木秀義(1112-1184)は、平治の乱で源氏が敗れると伯母の夫である奥州の藤原秀衡を頼って落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められて相模に逗留。結果として、伊豆に配流された源 義朝の嫡男の頼朝の挙兵に子の四兄弟を参加させることが出来た。頼朝に京都の動向を逐一伝えたともいう。その佐々木四兄弟の弟の隠岐守義清の五代の裔にあたる義泰が出雲国富田荘を本拠地として富田を称したのが富田氏の始まりという。
南北朝時代には一族の塩冶高貞が足利高氏から出雲一国を任されている。塩冶高貞が妻の顔世御前に横恋慕した高師直の讒言によって討伐を受けると、佐々木高氏道誉が出雲守護職となっている。この佐々木氏は言うまでもなく富田氏の本宗家に当たる。観応の擾乱で直義が敗れると山名時氏は南朝に与するか、直義の養子である足利直冬に与するか、足利高氏に帰参するかの選択を迫られた。山名時氏は佐々木道誉に頼んで足利高氏への帰参を願うが佐々木道誉との間に齟齬を生じた。ために、山名時氏は領国の伯耆から道誉が守護職を務める出雲へと侵攻し守護代吉田厳覚を追放した。伯耆・因幡・出雲・隠岐を支配下に収めた。この時、富田秀貞は引き続き出雲にあって山名氏の目代となっている。秀貞は南北朝の動乱の中で戦死している。
富田知信は近江の生まれで近江長浜城主だった頃から豊臣秀吉に仕えた。従五位下左近将監に任ぜられ、伊勢安濃津五万石城主にもなっている。しかし、1613年に、姻戚の石見津和野藩主坂崎直盛の甥の左門が罪を犯して逐電。左門の伯母であった信高の妻がこれを匿ったことで坂崎家との騒動となり所領没収。陸奥国磐城平藩主鳥居忠政の許へ預けられた。