由良
由良氏はもとは横瀬氏を名乗っていた。その横瀬氏は武蔵七党の横山党の一族。新田氏被官として横瀬郷を本拠地としていた。もともとは小野氏であり武蔵七党の一つであった横瀬氏に養子として迎えられたのが、主筋の新田貞氏。貞氏は新田義貞の末子とされる。貞氏が戦死した時に6歳だったのを藤沢遊行寺の僧が救って逃げ延びたという。剃髪して良阿弥と名乗るも還俗して旧臣横瀬氏に養子として迎えられたと伝えられている。ところが、後に「享徳の乱」で活躍した由良国繁は自身を明確に小野国繁と名乗り新田国繁とは名乗っていない。つまり、室町時代には由良氏は武蔵七党の系譜を名乗っていたことになる。
新田(横瀬)貞氏は1416(応永23)年の上杉禅秀の乱に際して、一族とともに鎌倉公方足利持氏に与し館林に出陣し岩松満純と闘った。岩松満純の死後、岩松家の家督は満純の父の満国の外孫の持国に承継された。満純の子で幼少だった家純は流浪の末に美濃守護土岐持益ももとから足利義教に見出される。そして、1438(永享10)年の結城合戦で関東に下り、持氏の遺児を擁した持国方を敗った。この時、由良貞氏の子の貞治が岩松氏の配下となった。
その後の歴史は複雑だ。構図としては、主君岩松家と家老の由良(横瀬)家との攻防と言って良いだろう。もともと岩松家二分の原因である満純の死をもたらしたのは由良(横瀬)貞氏。ところが、貞氏の子の貞治は岩松満純の子の家純に従った。貞国、国繁の代には岩松家の筆頭家老の地位にまで上り詰めた。ところが、岩松家純の子で京都にあった明純が関東管領上杉顕定(1415-1510)の父の越後守護上杉房定の関東出陣を促すために関東に下向すると事情が異なってくる。明純は上杉顕定から独自に父の家純の所領を安堵されると、家純は反発し逆に明純を勘当し岩松家の差配を由良国繁に託した。明純は仕方なく上杉顕定を頼って鉢形城に入った。家純の死後、由良氏は明純の子の尚純を擁立。この体制も明純・尚純父子が由良景繁に戦いを挑む(明応の乱)に及んで崩壊。結局、この戦いで岩松父子側が敗れ由良泰繁は昌純を岩松氏の家督に据えた。対立は繰り返され、昌純も成人するに及んで由良氏を疎ましく思い対立。戦いを挑むも敗れ自害。岩松家の家督は泰繁の擁立した氏純に承継される。そして、氏純が1548(天文17)年に世を儚んで自害するに至って岩松家は事実上断絶した。
横瀬(由良)成繁の代に由良から横瀬に改めている。改めたのは名字だけではない。由良氏は小田原北条氏と両上杉氏と古河公方の連合軍の戦いである河越合戦の前までは山内上杉方だった。河越合戦で敗れた上杉憲政の家督を承継した長尾景虎が関東管領上杉景虎として関東に出兵し後北条氏と争った際も上杉方として戦っている。この時点で由良から横瀬に改めている。しかし、上杉景虎と対立する武田信玄の軍が上野国に進出してくるに至って由良成繁は上杉謙信陣営から北条氏康に鞍替えを図った。
その後、武田家は織田信長によって滅亡。織田信長配下の滝川一益が関東管領に任命されると再び勢力図が大きく入れ替わった。続いて、織田信長が本能寺に倒れると関東管領滝川一益も厩橋で北条氏に敗れ敗退。結果的に北条氏政・氏直父子の関東支配が強化された。氏政・氏直父子は関東支配を完全なものとするために佐竹氏攻撃するとして金山・館林両城の明け渡しを由良国繁・顕長兄弟に求め抑留という手段に打って出る。これに対して国繁・顕長兄弟の母妙印尼が孫の貞繁を大将として抵抗。北条軍を退けている(1584年)が、由良国繁は人質に取られた形でその後も北条氏の小田原城にあった。1590(天正18)年に豊臣秀吉が小田原征伐を行い前田利家が松井田城を攻めると、妙印尼は参陣し豊臣秀吉方に与した。この功績によって、小田原落城後に豊臣秀吉から上総国牛久5,400石の領地を与えられ徳川家康の与力とされた。
1600(慶長5)年の関ヶ原合戦では由良国繁は江戸留守居、貞繁は永井直勝に従って戦った。この功績によって相馬郡に新たに1,600石を与えられ合わせて7,000石を知行する身となる。残念ながら貞繁の死の時点で養子の貞長(実弟)が幼少であったために所領は全て収公されたが幕府高家として家は存続した。