山口家_常陸下総牛久藩
周防山口の名門守護大名大内氏は義隆の時代に出雲の尼子晴久、筑前の少弐資元家臣と覇を競い周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前に版図を広げた。しかし、文治派と武断派の家内対立が激化し1551(天文20)年に重臣の陶晴賢が謀反に及び自刃を余儀なくされた。陶晴賢は義隆の甥の大内義長を擁立するが各地での叛乱を抑えることが出来ず、毛利元就によって滅ぼされた。山口氏は、大内義弘の次男・大内持盛を祖とし、父祖伝来の地である山口を名乗った。子孫は尾張に住し織田家に仕えた。山口重政は山口盛政の子であったが尾張国寺辺城主山口重勝の養子となり、織田信雄の家臣の佐久間正勝に仕えた。後、徳川秀忠の家臣となる。関が原の戦い時の信濃上田城攻撃の戦功によって牛久1万石を得る。ところが、大久保長安事件に連座する形で、大久保忠隣の養女(石川忠義の娘)と嫡男・山口重信の無許可の縁組の咎めを受けて改易。1615年の大阪夏の陣で、井伊直孝に属して戦功を挙げ再び大名として返り咲いた。