結城氏
結城氏は小山政光の三男朝光が、源頼朝から下総国結城を与えられ本領としたのが始まり。小山氏は藤原秀郷流の名門。小山政光の後妻の寒河尼が源頼朝の乳母だった関係から、頼朝の挙兵時にいち早く寒河尼が実子の朝光を伴って参陣。これが小山氏と結城氏の飛躍の契機となる。朝光は頼朝の近侍として付き従った。そのため、頼朝が亡くなると朝光の悲しみは一通りではなく、そのことが梶原景時の讒言に会うことになる。但し、事前に情報を得た朝光は三浦義村を頼り、有力御家人66人を結集して「景時糾弾訴状」を連名で将軍頼家に提出。逆に梶原景時が追討されている。結城家は将軍家の御門葉として、幕府内でも源家一門の足利氏と同格を誇る一方で、北条泰時、北条時氏から時頼と深い関係を築いた。
小山三兄弟は奥州征伐の戦功によって奥州にそれぞれ領地を得た。結城朝光も白河の地を得ている。その白河庄に、孫の結城祐広が移住し白河結城氏の祖となっている。白河結城氏は本家以上に北条得宗家との関係を深め勢いは本家を凌ぐほどになっていった。ところが、後醍醐天皇挙兵時には北条得宗家から寝返っている。建武新政で北畠顕家が陸奥守に就任すると結城宗広は陸奥国諸奉行となり、1334(建武元)年に陸奥国府成立時には宗広・親朝父子は式評定衆となっている。ここに至って本家の結城氏と分家の白河結城氏との立場は逆転。白河結城氏が結城氏の惣領家となるに及んだ。以後、本家の結城氏は下総結城氏と称される。
1380(康暦2年)に小山義政が宇都宮基綱と争い鎌倉公方足利氏満に命じられた関東管領上杉憲定に討たれると、結城基光の二男泰朝が断絶した小山氏の名跡を承継した。再び、結城本家が歴史の表舞台に登場した瞬間である。結城家は関東八家の一つとされるようになり、関東管領上杉氏憲が鎌倉公方足利持氏に叛旗を翻した上杉禅秀の乱(1416)では結城基光は鎌倉府側として戦功を立てた。足利義教の将軍就任に反対した鎌倉公方足利持氏と幕府の意向を受けた関東管領上杉憲実との間に永享の乱が勃発すると、結城氏朝は持氏方として関東管領軍と対峙した。そして、持氏の自刃後は遺児の春王丸・安王丸を匿い世に言う結城合戦を繰り広げた。結城方には下野の宇都宮等綱・小山広朝・那須資重、常陸の佐竹義憲・筑波潤朝・宍戸持里、上野の岩松持国、信濃の大井持光が参集、関東管領上杉憲実率いる千葉胤直、小笠原政康、甲斐の武田氏、越後の長尾氏、朝倉氏、土岐氏、今川氏連合軍と壮絶な戦いを繰り広げた。いわば関東武士団対室町幕府の戦いとなった訳だが、結果は結城方の敗北に終わり、氏朝・持朝父子の自害によって名門結城氏は事実上断絶した。
これで関東に平安が訪れた訳ではない。関東の武士団はいわば外様の関東管領家に従うことを潔しとせず、鎌倉公方が再び擁立されることを願った。そこで、嘉吉の乱で混乱していた室町幕府は関東の平安を保つために持氏の遺児永寿王丸を新しい鎌倉公方成氏として鎌倉に派遣した。新公方成氏は鎌倉に入ると、結城氏朝の四男の成朝を取り立て断絶していた結城氏を再興させた。そして、1450(宝徳2)年の江ノ島合戦の後、1454(享徳3)年に鎌倉公方足利成氏は結城成朝、武田右馬守信長、里見民部少輔義実、印東式部少輔、岩松持国らに命じて鎌倉西御門の上杉憲忠邸を襲撃し謀殺して怨讐を果たす。この事件を契機に享徳の乱が勃発し、鎌倉公方成氏は室町幕府軍に追われ鎌倉を後にし古河に移った。源 頼朝による幕府創設以来武士の都として栄華を誇った鎌倉の歴史がここに終焉を迎えた。
結城成朝は、山川城主・山川氏、下館城主・水谷氏、岩松城主・岩松氏らとともに結城四天王と呼ばれた家臣の多賀谷高経によって殺害された。成朝のあとは兄長朝の子氏広が家督を承継するが若死にし、子の政朝が幼少の身で結城氏の家督を継ぐ。しかし、幼少であったために一族の山川景貞や家臣の多賀谷和泉守祥賀(2代目)の専横を許すこととなる。そこで、政朝は妻城主・多賀谷家稙に命じて多賀谷和泉守祥賀(2代目)を討ち取っている。しかし、多賀谷氏、山川氏、水谷氏、岩松氏ら結城洞中(結城四天王)は独立の動きを絶えずしたために家政運営は困難を極めた。また、北の宇都宮氏、南の小田氏からは絶えず切り崩し工作が行われ、政朝が亡くなると宇都宮氏が小山に侵攻し、家督を承継していた政勝と小山高朝の兄弟が必死に防戦を余儀なくされている。宇都宮興綱・俊綱父子は北の那須氏と対立関係にあったために、結城氏と小山氏の姻戚連合は那須氏とも大同団結を図り、小田・佐竹・宇都宮連合軍と対峙した。
こうした動きの一方で、後北条氏が関東を勢力圏に次々と納めていった。この事態に対して、古河公方足利晴氏と扇谷・山内両上杉氏は手を結び1545(天文14)年に北条氏康方の河越城を包囲する。ところがこの戦いは河越夜戦と呼ばれる奇襲によって北条氏康の勝利となる。古河公方の位は氏康の甥に当たる足利義氏に挿げ替えられる。時流を読んだ結城政勝は後北条氏と誼を通じ、宿敵小田氏を海老島城にて打ち破った。しかし、山川・水谷・多賀谷氏は依然として家臣としての地位にありながら独自の路線を歩んでいた。ために、1559(永禄2)年に結城政勝が亡くなり小山高朝の子で養子の晴朝が結城氏の家督を承継したことを契機として小田氏治が佐竹義昭、宇都宮広綱と連合し反北条陣営として結城城を攻めた。下妻城主多賀谷政経も離反に及んだ。戦いは古河公方の調停で和睦に終わった。1560(永禄3)年の越後長尾景虎による関東討伐の際にも結城晴朝は公方足利義氏とともに後北条氏方に与している。一方の多賀谷・山川・水谷氏は長尾景虎に与している。上杉憲政から関東管領職を譲られ上杉政虎(謙信)となった景虎の猛攻を結城氏は受けることになるが、これはかつての鎌倉公方軍と関東管領軍との戦いの再来のようでもある。但し、結城氏周辺の関東の武士団の多くは今回は上杉方に与していた。
上杉家と後北条氏との間に越相同盟が成立した後、上杉謙信が亡くなると、後北条氏は関東一円を勢力圏内に次々と組み込んでいった。これに対抗する形で、結城晴朝は、怨讐を越えて佐竹氏、宇都宮氏、那須氏らと同盟し北条氏政・氏照に当たった。その最後の決戦が沼尻の合戦(1584年)である。佐竹義重、宇都宮国綱、結城晴朝が北条氏政、氏直父子が争った戦いは、豊臣秀吉と徳川家康による小牧・長久手の戦いと連動していた。佐竹義重と豊臣秀吉が連絡を頻繁に取り合い、北条氏政と徳川家康が連絡を密にしていたのだ。この戦いは短期的には北条方に多少有利な形で終結するが、長期的には後の豊臣秀吉による小田原征伐へと繋がった。結城氏は小田原征伐に際して所領を安堵されることとなった。もっとも、子の無かった結城晴朝が秀吉の養子となっていた徳川家康の二男の秀康を養子とし結城氏の家督を承継させたことが良かったかどうかは分らない。何故なら、結城の名跡は後に秀康の子の忠直の松平氏への復姓によって途絶えてしまうのだから。