猪俣党
武蔵七党の一つ。『武蔵七党系図』では横山党と同じく小野姓ということになっている。本拠地はかつての那珂郡。児玉郡、榛沢郡、そして秩父郡に囲まれた地で決して広い地域とは言えない。しかし、南に荒川、北に利根川が流れ肥沃な土地に根を張った猪俣党は、ここを拠点に榛沢、男衾、大里へと版図を広げていった。猪俣党の中ではっきりと歴史に名を留めているのは猪俣時範の五代の孫の猪俣小平太範綱(小平六)。『保元物語』に同族猪俣党の岡部六弥太忠隆、酒匂三郎とともに源 義朝に従ったとある。また、平治の乱でも源 義平十七騎の中に名が見える。源 頼朝の挙兵時から譜代の家人として従い一ノ谷の合戦では義経配下で越中前司盛俊を討ち取っている。
猪俣党は、児玉郡美里に河匂、木部、古郡、甘糟、深谷に荏原、人見、横瀬、本庄に滝瀬、花園に御前田、寄居に藤田、尾園、男衾、岡部に岡部という広がりを見せた。
『新編武蔵風土記稿』によれば、猪俣村は「大沢郷松久庄鉢形領に属す。江戸よりの行程22里、民戸250、南は円良田村、北は中里・甘糟の2村、西は大仏・湯本の2村にて、東は榛沢郡用土村なり。東西14町、南北20町、村内に江戸より信濃国への脇往還かかれり。当村は当国七党の内、猪俣党の住せし地にして、天正年中まで子孫猪俣能登守所領せし事、其家の譜及(「秩父通志」)等に見えたり。小名、小栗、宿、宮前、栃木保、湯脇、野中、東川原」とある。現在、猪俣の地には猪俣姓はないというが、猪俣五衆と呼ばれる岡本、占部、小沢、立川、根岸の姓は残るとか。
往時を偲ぶ史跡として、旧榛沢郡針ヶ谷村弘安寺の末寺である猪俣山歓喜院正圓寺(本尊は11面観音)、猪俣氏開基の同じく新義真言宗の松久山明王寺高台院、猪俣小平六範綱の6代兵庫頭入道、その子の兵庫六郎太郎などが猪俣介と称して住んだ猪俣小平六館、猪俣党の墓、小平六の死後約400年を経て小野満開和尚が小平六の守本尊を持ち帰り草庵を営んだという、猪俣(小野)能登守邦憲が亡父の菩提を弔うために中興したという曹洞宗の光厳寺、猪俣弾正少弼定平の次男の白石播磨守宗清を開基とする宗清寺、鎌倉由比ガ浜から八幡宮を勧請したとされる加須の由井ヶ島などがある。