アレキサンドロス帝国
マケドニア王時代
アレキサンドロス大王は、マケドニア王[ A ]とエピロテ王女オリンピアスの間に生まれ、幼年期に[ B ]を家庭教師に迎えギリシアの基礎的な教養を身につけた。紀元前338年、アレクサンドロスは一軍の将として父に従いギリシアに出兵し[ C ]でアテナイ・テーバイ連合軍を破る。父フィリッポス2世は全ギリシアの覇権を握ると続いてペルシャ東征を計画したが紀元前336年に暗殺された。
20歳の若さでマケドニア王を継承したアレクサンドロスは、敵対者を排除してマケドニアを掌握すると、父王暗殺後に混乱に陥っていた全ギリシアに再び覇を唱えた。ギリシアの諸ポリスと同盟したアレクサンドロスは、父の遺志を継いで紀元前334年にギリシア軍を率いてペルシャ東征に出発した。
小アジアの征服
紀元前334年、小アジアに渡ったギリシャ軍18,000は[ D ]で ミトリダテスの率いるペルシャ軍を下した。この印象的で鮮やかな勝利によって、アレクサンドロスは味方将兵の信頼を得るとともに敵に対しては計り知れない恐怖心を与えることになった。カリスマ性を帯びたアレクサンドロスに率いられるギリシア軍は、小アジアに駐屯するペルシャ軍を蹴散らしながら東進を続けて行く。
紀元前333年、ついにアレクサンドロスはアンティオキアの北西の[ E ]において ダレイオス3世自らが率いるペルシャ帝国軍10万と遭遇する([ E ]の戦い)。アレクサンドロスは騎兵とファランクスを縦横無尽に指揮してペルシャ軍を敗走させ、ダレイオスの母・妻・娘を捕虜にした。このときペルシャから和睦の申し出を受けるが、これを拒否しさらに進軍を続ける。
エジプトの征服
アレクサンドロスは シリアとフェニキアを屈服させると、南下してエジプトに侵入する。紀元前332年、エジプト人に解放者として迎え入れられた??アレクサンドロスは、アレクサンドリア市を建設しファラオとして認められア?メン神殿にその像を祭られた。この地で将兵に充分な休養と補給を施したアレクサンドロスはペルシャ帝国への遠征を再開する。
ペルシャ帝国の滅亡
紀元前331年、ギリシア軍47,000は、チグリス川上流の[ F ]で20万とも30万ともいわれたダレイオス指揮下のペルシャ軍を敗走させた([ F ]の戦い・アルベラの戦いともいう)。ダレイオスがカスピ海東岸に逃れると、ペルシャ帝国はもはや風前の灯火となり果てた。ペルシャ帝国の中枢に乱入したギリシア軍は、 バビロンやスーサの主要都市を略奪し、ペルセポリスを徹底的に破壊して焼き払った。
翌年、ダレイオスが王族で側近であったベッソスによって暗殺されると、アレクサンドロスはベッソスの不義不忠を糾弾してこれを攻め滅ぼし、ダレイオスの遺骸を丁重に葬った。
インド遠征と帰還
ペルシャ帝国を征服したアレクサンドロスは、次にインドへの遠征を目指した。紀元前327年にインダス川を越えてパンジャブ地方に侵入し、インダス川を南下しさらにインド中央部に向かおうとし??たが、部下が疲れを理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく紀元前326年に兵を返すことにした。その後アレクサンドロスは、残存する敵対勢力を駆逐しながら紀元前323年にスーサに帰還した。
大王の急逝と帝国の行方
バビロンに戻ったアレクサンドロスはアラビア遠征を計画していたが、ある夜の祝宴中に突然倒れ、10日間高熱にうなされ「最強の者が帝国を継承せよ。」と遺言し死去してしまった。残された大帝国はアレクサンドロスの後継者を名乗るアンティゴノス、プトレマイオス、エウメネス、カサンドロス、リュシマコス、セレウコスらの諸将によって、[ G ]が勃発し分裂した。
東西融合政策
アレクサンドロスは征服地にその名に因んでアレクサンドリアと名付けた都市を建設して経済の活性化をはかり、また図書館などを完備してギリシア文化の浸透を推進し、帝国の公用語にギリシア語を採用した。さらに東西融合に心を配り、自らダレイオス3世の娘を娶りペルシャ人と部下の集団結婚を奨励し、ペルシャ風礼式を取り入れ代官に現地有力者を任命した。
ヘレニズム文化
ギリシア文化がオリエント文化と融合し華?やかなヘレニズム文化がアレクサンドロスの帝国に開花し、ラオコーン像、ミロのヴィーナス、サモトラケのニケ、瀕死のガリア人などの優れた彫刻が各地に制作された。エウクレイデス、アポロニオス、アルキメデス、エラトステネス、アリスタルコスらの優れた学者も輩出し、その後、古代ローマ、イスラーム、ヨーロッパに強い影響を及ぼした。
さらに、東方奥深くに入植したギリシア人はガンダーラ美術に大きな影響を与た。はるか極東の日本の東大寺の柱にまでヘレニズム文化の痕跡が認められている。
マケドニア軍の強さ
ギリシア世界で伝統的であったファランクスに加えて、馬匹の確保や地形に起因する運用の難しさからギリシアでは重視されなかった騎兵を組み合わせたマケドニア軍は、当時最高級の戦闘力を誇る軍隊であり、そのうえ各々の将兵はその軍務に誇りを持っていて精強の兵士であった。また、アレクサンドロス自ら行軍中にあっても荷馬車に乗り降りして体を鍛錬したと伝えられる。彼は常に最前線で将兵とともに戦い、自らの頭部や胸部に重傷を負うことさえあった。数々の戦場で危機を乗り切ったアレクサンドロスは神懸ぁ???った戦士であり将兵から絶大な人気を得ていた。
このようなマケドニア遠征軍に対してペルシャ軍は大軍を動員できたが、利害が絡み合う各国将兵による混成軍であったことから団結力が弱く、相互に連携した行動を取ることには不慣れであった。このため総指揮官の指令を行き渡らせることは難しく、いったん敗走を開始すると建て直しが困難であった。
アレクサンドロス暗殺計画
東方遠征中、ワインに毒が盛られていたことにアレクサンドロスが気づいたことから、若手将校らによって企てられていたアレクサンドロス暗殺計画が発覚する。関係者の逮捕、尋問を繰り返すうち、司令官の一人フィロタスの名前が首謀者の一人として挙がる。フィロタスは無実を主張するが、彼の義兄弟らの証言から有罪と判決が下り、フィロタスは処刑される。
[注]
アレキサンドロス大王:紀元前356年7月? - 紀元前323年6月10日、在位前336年 - 前323年。古代マケドニア王国のテメノス朝の国王。後世にはアレクサンドロス大王と呼ばれている。
[出典]:wikipediaより改編。
A:フィリッポス2世
B:アリストテレス
C:カイロネイアの戦い
D:グラニコス川の戦い
E:イッソス
F:ガウガメラ
G:ディアドコイ戦争