狡兎死して

新しい政権が樹立され安定した暁に、功績のあった重臣が処分されてしまうことを「狡兎死して走狗煮らる」という。織田政権にあっては佐久間信盛(1528-1582)が該当する。

織田家譜代の佐久間家は源 頼朝の挙兵に参加して衣笠城で壮絶な戦死を遂げた三浦義明を祖とする。義明の三男義春の四男家村が安房国狭隈郷を領して佐久間を称したのが始まり。

和田義盛の乱(1213)に際して、佐久間朝盛は和田義盛の孫であった関係で和田方に与した。北条氏に敗れて後、越後国奥山荘を経て、尾張国愛知郡御器所に落ち着いた。

信長の下で、「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に退き佐久間」と呼ばれたほどに評価されていた。秀吉、丹羽長秀、柴田勝家と並び称されていたのだ。

そして、石山本願寺攻めでも、戦死した塙直政に代わって総司令官の地位にあった。それが、本願寺側が和睦し石山を退去した後に、高野山に追放されてしまう。更に、高野山からの退去も命じられ、最期は十津川で一生を閉じたとされる。この追放劇を目の当たりにした羽柴秀吉、前田利家、丹羽長秀は自家の安泰を図るために信長の子女との間に縁戚関係を結んだ。ただ明智光秀を除いて。

写真は十津川の景色。


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