那古野城跡

1522(大永12)年に尾張守護斯波義達は遠州を廻って駿河守護今川氏親(北条早雲の甥)と争う。しかし、・今川方の朝比奈泰以、飯尾賢連に敗れる。再起を期するが再び負け今川の捕虜となる。

今川氏親は末子にして義元の弟の今川左馬助氏豊に尾張の地を与え那古野城を築城した。氏豊は義達の娘を妻としたという。但し、この氏豊は1532(天文元)年に、尾張下四郡守護代織田大和守家配下の清洲三奉行家の一つ弾正忠家の織田信秀に追われた後に、駿河今川家を頼らず京都へ落ちている。この点から駿河今川家ではなく縁戚の尾張今川家の出ではないかとも考えられている。『難太平記』等によると、今川国氏(-1283)の娘が名兒耶(那古野)氏に嫁いだことから今川一族と扱われ今川那古野氏と呼ばれたという。すると、今川左馬助氏豊は今川那古野氏ということになる(小和田哲男『今川家臣団の研究』清文堂出版社2001年)。駿河守護の今川氏親が土地勘の無い尾張の地を治めるに際して、尾張の地にあった同族を起用したと考えると確かに無理はない。

ともあれ、信秀の居城となった那古野城で後の覇者信長は生を受けている。信秀は三河侵攻のために1534(天文3)年に古渡城に移る。那古野城は信長の居城となり、林秀貞、青山与三右衛門、内藤勝介、平手政秀が宿老として置かれた。

信長は1555(弘治元)年に清須城に移り、那古野城を叔父で小豆坂七本槍の一人である織田信光に託している。清須城は斯波義達の子の義統を擁立し、信秀と争っていた守護代織田信友の本拠だった城。織田信友は義統の家臣簗田弥次右衛門が信長に通じたとして義統を暗殺。義統の子の義銀は信長を頼った。そして、信長は守護家として義銀を立てて守護代家を討ったのである。

ちなみに、守護代信友は小豆坂七本槍の信光によって討ち取られ、その後に那古野城となった信光は守護代家の旧臣によって暗殺された。また、暫くは守護として擁立されていた斯波義銀は三河の吉良義昭、駿河守護今川家と結んで信長の追放を企み逆に追放。義銀の領していた京都の斯波武衛家京屋敷は信長によって、将軍足利義昭の居所となった。

室町幕府最期の将軍足利義昭の擁立と追放は、同じく足利氏の斯波武衛家尾張守護斯波義銀の擁立と追放の歴史の繰り返しと言えば言いすぎだろうか。


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