阿波細川家

鎌倉時代、承久の乱以降(1221)、阿波の守護は佐々木経高から小笠原長清に移る。以後、小笠原家が岩倉城、大西城を守護所として阿波に根を下ろした。一宮、重清、河村、赤沢、坂東、三好などは、皆、小笠原家からの分家。

鎌倉幕府が滅びると、足利高氏の命令によって細川和氏が阿波に入国し秋月城を守護所として南朝勢力と対峙。小笠原一族も抵抗を続ける。そして、観応の擾乱では小笠原頼清は南党を組織して、和氏から守護職を譲られた頼春のの子の頼之に戦いを挑んだ。阿波守護の父頼春が京都四条大宮で戦死すると頼之は阿波守護に就任。旧守護家である小笠原頼清の南党を破る。続いて、細川家初代阿波守護の和氏の子の清氏との間の讃岐白峰の戦い(1362)も制した。

頼之が阿波をほぼ平定すると、一宮城主小笠原成宗、南党を率いて敗れた小笠原頼清も軍門に下った。


This page is powered by Blogger. Isn't yours?