三好元長の台頭

■1485(文明17)年:三好之長が京都にて徳政一揆を率いる。
室町幕府は、山城守護伊勢貞宗、侍所頭人京極経秀に鎮圧を指示。所司代多賀高忠が三好之長の主家である阿波守護細川政之居館を包囲。しかし、細川政之は之長を庇い通す。

■1490(延徳2)年:足利義材が第10代将軍に即位。

■1493(明応2)年:六角征伐などによって将軍権力強化を目指す足利義材を細川政元が幽閉。政元は畠山政長、葉室光忠も追放。これ以降、細川惣領(京兆)家が幕府の実権を握る。

■1503(文亀3)年:細川政元は、前関白九条政基の次男澄之に続いて、前阿波守護細川成之の孫、澄元を養子とする。

1506(永正3)年:細川澄元の後見として三好之長が上洛。
澄之は丹波守護、澄元は摂津守護となる。三好之長は摂津西半国守護代となる。

■1507(永正4)年:若狭侵入を繰り返す丹後守護一色義有(よしもち)討伐の幕命を受け、細川政之が澄元、澄之、三好之長、赤沢朝経を率いて進発。
賀悦城を攻めていた澄之は密かに一色家臣の賀悦城主石川直経と結ぶ。城の陥落を信じた政之は軍を引く。
細川政之が浴室にて、山城下五郡守護代香西元長の差し向けた刺客竹田孫七によって暗殺(6月23日)。
百々橋の戦い(6月24日):澄之軍の薬師寺長忠、香西元長、香西元秋が澄元邸を囲む。香西元秋が奈良修理亮元吉に討たれる。澄元は三好之長とともに甲賀の御家人山中為俊のもとへ落ちる。
澄之家督承継を将軍足利義澄に認められる(7月8日)。この間、丹後の一色討伐軍を率いていた赤沢朝経が賀悦城主石川直経に攻められ自刃。
(7月28日)細川庶家の細川高国が摂津欠郡守護細川政賢、淡路守護細川尚春ら反澄之陣営を糾合。摂津守護代薬師寺長忠の居城茨木城と香西元長の居城嵐山城を陥落。背景には澄之が公家の九条家出身だったことがある。
(8月1日)澄之の遊初軒を高国が包囲。澄之軍は一宮兵庫助が奮迅するも討ち死に。元長、長忠も討ち死に。澄之も自刃。


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