三好之長最期の地
三好之長(1458-1520)は阿波守護細川政之の家臣。1485(文明17)年に京都で徳政一揆を率いて名を轟かせた。1492(延徳2)年に室町幕府将軍足利義材の将軍職を剥奪した幕府管領細川政元が、関白・九条政基の末子の澄之を養子とし、政之の弟の義春の子で澄元を同じく養子とすると、澄元に従って再び入洛。細川政元が澄之派で畿内軍の香西元長の家臣竹田孫七によって暗殺されると三好之長ら阿波軍は一旦は京都を離れる。しかし、同じく政元の養子で備中守護細川政春の子の高国(1484-1531)と結んで澄之を倒した。
後に、畿内国人と結んだ高国が澄元と将軍義澄を追放すると、「如意ケ嶽の戦い(1509)」、「船岡山の戦い(1511)」を戦うが敗れている。最期の戦いは「等持院の戦い」。この戦いで敗れた三好之長は通玄寺塔頭曇華院で院主高照院に匿われていたが発見され百万遍で自害した。
第11代将軍足利義澄は「船岡山の戦い」の最中に病死、細川澄元も三好之長の死後に阿波勝瑞城まで逃げ延びたが同じ年に病死している。