六条判官墓所
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義朝は為義に廃嫡扱いを受けたために鎌倉に下り、関東武士団を束ねる基礎を作ったと言われる。親子関係は良好だった訳ではない。しかし、保元の乱の戦後処理に際しては自身の論功行賞に代えて為義ら親族の助命を嘆願している。結局、これは受け入れられなかった。このことが、平治の乱へと繋がっていく。
さて、為義は七条朱雀で首を切られ、首実検の後、左京区北白川下池田町にあった北白河円覚寺に葬られた。それが明治45年に京都駅拡張に伴って移された。
義朝は為義に廃嫡扱いを受けたために鎌倉に下り、関東武士団を束ねる基礎を作ったと言われる。親子関係は良好だった訳ではない。しかし、保元の乱の戦後処理に際しては自身の論功行賞に代えて為義ら親族の助命を嘆願している。結局、これは受け入れられなかった。このことが、平治の乱へと繋がっていく。
さて、為義は七条朱雀で首を切られ、首実検の後、左京区北白川下池田町にあった北白河円覚寺に葬られた。それが明治45年に京都駅拡張に伴って移された。