山口大口費
『日本書紀』の白雉元(650)年10月の条に千仏像を制作したとして記録されている彫刻家。正確には、漢山口直大口(あやのやまぐちのあたいおおぐち)であり、応神帝の時代に、後漢霊帝の曾孫である阿知使主(あちのおみ)が一族を率いて来日したことに始まるとの伝承を持つ東漢氏(やまとのあや)の一族。
法隆寺金堂の『(木造)四天王』像である『広目天』『多聞天』『持国天』『増長天』のうち『広目天』の作者として光背の刻銘されている。
また、かつては「虚空蔵菩薩」と呼ばれ百済からもたらされたとされてきた『百済観音』は『四天王』と並べるように後世に移動させられていることや作風の点から見て山口大口費の作品と考えられている。
『百済観音』は、日本でのみ用いられる樟(くすのき)を用いていることから日本で作られたことが確認されたものであり、日本アルカイスム期における代表作とされている。