秦始皇帝銅車馬

ギリシアで周辺の野蛮とされたマケドニア王国のアレクサンドロス大王(B.C.356-323)が活躍している時代、中国では春秋戦国時代と呼ばれる群雄割拠の時代だった。中国は、ギリシアにおけるマケドニアと同様に文明の中心からは遠い秦の始皇帝(B.C.259-210)によって紀元前221年に統一された。アレクサンドロス大王の世界帝国は中国統一時にはバクトリア、パルティア、セレウコス朝シリア、アッタロス朝ペルガモン、アンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプトなどの諸国に分裂していた。

秦の政は、韓・趙・魏・燕・楚・斉の六国を次々と征服し始皇帝を名乗った。この始皇帝のもとで度量衡、貨幣、文字が統一された。しかし、始皇帝が死去すると4年後には秦は滅亡へと向かう。各地で叛乱が相次ぐ中、B.C.209年に起った陳勝・呉広の乱は一大叛乱となる。結局、秦の将軍章邯によって破られるが、直後に劉邦が挙兵し統一国家漢を樹立した。

始皇帝陵の兵馬俑はその混乱の中とその後の歴史の流れの中で忘れ去られていた。再び姿を現したのは1974年。この時、1万4260uの広さに実物大の陶俑と陶馬なだ6300体が埋葬されていた。この兵馬俑はなんと始皇帝即位直後から建設され38年間にわたって建設されたという。銅車馬は秦始皇陵の陪葬品の一つ。

中国史


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