織田信孝の墓

源義朝ゆかりの野間大坊にある。織田信長の三男だが、次男の信雄よりも先に生まれていたのが母親の身分が低かったために三男とされたとも言われる。1568(永禄11)年に北伊勢神戸城主神戸具盛の嗣子となる。これは、織田信長による伊勢三名族北畠氏(織田信雄)、長野氏(織田信包)、神戸氏簒奪の一環。

信孝は本能寺の変の際は四国征伐の途上で摂津住吉にあったが、信長生存の報を信じ明智光秀の女婿で従軍していた津田信澄を討っただけで、光秀追討軍を編成しなかった。直後に大返しをしてきた羽柴秀吉軍に寄騎の丹羽長秀とともに参加。しかし、指揮権を握ることは出来なかった。

織田家後継を巡る清洲会議では柴田勝家に担がれるも、秀吉が信雄ではなく信長の嫡男の信忠の嫡子三法師を推したことで2度目の絶好の機会を逃す。更に、三法師の後見役となったにも関わらず約束どおりに三法師を安土城に移すという約束を違えたために秀吉と対立。秀吉に美濃衆の氏家直通、清水城主稲葉良通を味方に引き入れた上に岐阜城を攻められ和睦。これにも懲りず、翌年の1583(天正11)年には柴田勝家挙兵に呼応。秀吉に与した信雄によって捕らえられた。

そして信孝26歳で切腹した場所が野間。辞世は

むかしより 主をうつみ(内海)のうらなれば むくいをまてや はしばちくぜん

だったとされている。


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