恵林寺

2006年9月最後の美と歴史の旅は山梨県の乾徳山恵林禅寺。恵林寺は1330(元徳2)年にこの地を治めていた二階堂道薀が夢窓国師を招いて鎌倉の円覚寺派として始まった。後に京都の臨済宗妙心寺派に属している。


二階堂道薀の供養塔

二階堂道薀と言えば鎌倉幕府の重鎮で政所執事を務め、後醍醐天皇方の討幕軍を千早城に攻めている。鎌倉幕府が滅びた後に、才覚を買われ雑訴決断所所衆などに任命される。しかし、1334(建武元)年12月に謀叛の疑いで六条河原の露と消えた人物。

戦国時代には武田信玄の保護を受け、快川国師(紹喜)によって大いに栄え、1564(永禄7)年には武田家の菩提寺になっている。1576(天正)には武田勝頼によって信玄の葬儀が執り行われている。上の写真は四脚門で国の重要文化財。朱塗りであるために赤門とも。切妻造り檜皮葺きで桃山時代のもの。


三門

四脚門と本堂との間にある三門は山梨県の指定文化財。一門一戸(いっけんいっこ)の楼門形式。この場所こそ、快川国師が織田軍の兵火で焼かれた際に「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」と唱えて亡くなった場所。


信玄公のお墓

信玄霊廟明王殿の裏側には武田信玄(1521-1573)の墓がある。信玄は上洛途上の信州駒場で病没。快川国師に宛てた「恵林寺領之事」証文で恵林寺を菩提寺とし、死が3年間伏された後に子の勝頼によって葬儀が執り行われた。恵林寺での葬儀の次第は県指定文化財の「天正玄公仏事法語」に書き留められた。さて、信玄の墓は全高349.6センチの五輪塔と369.6センチの宝篋印塔の2つ。これらは1672(寛文12)年の信玄公百回忌に際して武田家遠孫と旧家臣団によって建立されたという。


武田家臣団の墓所

信玄の墓の近くには武田家臣団の供養等と家臣達の墓がある。更に、その横には江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の側近の柳沢吉保夫妻の墓。柳沢吉保(1658-1714)は武田信興が甲斐国巨摩郡柳沢を領して柳沢と称したのを始まりとする武田一族。祖先は武川衆に属していたが武田宗家滅亡によって徳川家に召抱えられた。父親の柳沢安忠は上野国館林藩士で、初め小姓として藩主綱吉に仕える。綱吉の信頼を集め徳川一門の地だった甲斐を領した。甲斐は父祖伝来の地なので柳沢吉保は感慨深かったろう。


柳沢吉保夫婦の墓所


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