塩田流北条氏
塩田流北条氏は鎌倉時代中期に第8代執権北条時宗の連署として活躍した極楽寺流北条義政(1242-1282)が鎌倉から塩田の地に移ったことで始まり、国時、俊時の3代にわたって栄えた家柄。国時、俊時が新田義貞による鎌倉攻めの折に北条得宗家とともに鎌倉の東勝寺にて自刃したことで滅んだ。
北条義政は時宗とともに文永の役(1274)という国難の対処に当たったが、徹底抗戦を掲げる時宗とそりが合わなかったとされ、得宗家被官平頼綱と対立する安達泰盛(1231-1285)の妻が妹に当たるなども絡み、出家し道義と名乗って塩田に隠棲した(1277年)。
信州塩田の地は第2代執権北条義時が信濃守護に就任して以来の繋がりがる。義時の跡を重時が承継した。